フィレンツェ 散策 17
2010年01月02日
そして、この大きな傷跡を残した戦争に、フィレンツは何の役割も果たさなかったのである。
サヴォナローラは「神の使者」を理由に神聖同盟に対し何の関わりも拒否したのである。
自らを神の代弁者と主張するに至っては、教皇も不快の念を隠さず、ローマに出頭して弁明せよと迫った。
それを断ると、教皇はサヴォナローラを破門してしまった。しかしサヴォナローラは教皇の指示に反し、「教皇に従うことは、神に反する」と明言してしまったのである。
教皇の怒りを恐れたフィレンツはサヴォナローラの追放を決意する。ここに至っては市民も愛想を尽かし、暴徒と化した市民によって吊るし首にされ、市内を引きずり回され、アルノ川に捨てられたのである。
財宝を失い、宮殿と別邸を没収されたメディチ家は、流浪の一族のようにヨーロッパ中をさまよった。
ピエロはイタリアにとどまり、ロマーニャに帝国を打ちたて、イタリア統一に動き出したチェーザレに合流したこともある。チェーザレはフィレンツにメディチ家を再興させて、トスカーナに貴重な同盟国を築こうした。しかしフィレンツはピエロの指導下でのメディチ家の復興を、まったく望んでいなかった。
チェーザレの野望は、先ずフランスのナポリ王国支配の野望を利用する、イタリアを統一した暁には教皇の名の下ナポリはフランスの一部と約束する、しかし本心は統一後の強力なイタリアからフランスを追い出すというもの。
一方ピエロはフィレンツェからの風当たり強さに失望しイタリアをあきらめ、フランスに逃亡するのである。フランス軍に加わったピエロは1503年スペイン軍との戦いで破れ逃亡中に船の転覆で死亡、ピエロの死亡後、メディチ家の当主は弟のジョヴァンニが引き継いだ。
ジョヴァンニはリヨンのメディチ銀行の支店を見ながらフランスで聖職者の道を選んでいた。
教皇がシクストゥス4世からイノケンティウス8世となると、ジョヴァンニに出世の道が開け、16歳のジョヴァンニは枢機卿に推薦された。そしてフランスから、ローマへと帰還していたのである。
しかしフィレンツ政府がローマ期間を耳にするや否や首に賞金をかけるとジョヴァンニはローマを離れ、ミュンヘン、ブリュッセル、フランドル、ルーアン、マルセイユ、ジェノヴァと回り、ローマに再び帰還する。
教皇アレッサンドロ6世とフィレンツの対立が起こったころ、ジョヴァンニは法王の利用価値のためにローマに暖かく迎えられていた。
その後ジョヴァンニは神聖盟国軍に合流し、フィレンツェの奪還を目指す。フィレンツェ市政府はサヴォナローラへと変遷したのはロレンツォ豪華王亡き後のメディチ家のピエロの責任であり、その弟ジュリアーノも同罪と主張し、帰還を拒否し、傭兵を雇い戦う意思を見せた。しかし指導者なきフィレンツェにジュリアーノが市内にメディチ派を編成するのは簡単なことであった。
内部と精通したジュリアーノは市政府の指導者を追い出し、フィレンツの僭主として返り咲いたのである。教皇ユリウス2世の死後、ジョヴァンニ枢機卿はレオ10世として教皇に選出された。
イタリアの政治に再びメディチ家が帰ってきた。そして目指すはイタリアの大地から外国勢力を追い払うことである。


