フィレンツェ 散策 19

2010年01月23日

その後フェルデナンドの死によりスペインの力が弱まると、マクシミリアンの死後神聖ローマ帝国を継いだカール5世大公がスペインとナポリを支配下に置いた。

オランダ、オーストリア大公国を含む強大な力を懸念し教皇レオ10世とフランスは妨害活動を行うが、それに失敗すると、教皇レオ10世は密かにカール5世と取引を開始した。

おりしもドイツではアウグスチノ会の修道士、マルティン・ルターによる宗教改革「聖書を唯一のキリスト教の源泉とする」が厄介な問題として台等しており、教皇レオ10世はルターの抹殺をカールに依頼することにした。

カールは引き受ける代償として、イタリア内のフランス領に攻撃をかけた時の援助を求めた。

教皇は条件付で了承し、カールはイタリア進軍の準備に入った。

 

教皇と神聖ローマ帝国の講和が成立した中、教皇レオ10世は最後の仕事に取り掛かる。

神聖ローマ帝国との講和は一時的なものであり、あくまでもイタリアそして何よりメディチ家のフィレンツェの再興をかけた力のよりどころは、やはりフランスとの関係強化が唯一無比なのであった。

そしてようやくウルヴィーノ公ロレンツォとフランソワ1世の従妹マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュとの結婚にこぎつけ、フランス王室にメディチ家の糸を結んだのである。

1518年3月に結婚式が執り行なわれ、1519年4月に一人の娘が誕生、

名はカテリーナとつけられた。

一方、かのロレンツォ・ディ・メディチ~イル・マニフィコ~の末裔に同じ1519年男児が誕生する、名はコジモとつけられた。

教皇レオ10世がこの世を去ると、次期教皇選出の2ヶ月にも及ぶ異例の長いコンクラーベの末に、フランスが賛成に回った。

そして、ジュリオ・ディ・メディチがクレメンス7世として教皇に即位。

そのフランスの思惑通り、カール大帝の横暴が徐々に強まると、クレメンス7世は再びフランスと手を結んだ。

これに危機感を持ったカール大帝は将軍「ゲオルグ・フォン・フルンズベルグ」率いる大部隊を結成しイタリアに押し寄せた。

ここに勇気ある軍人が登場する。ロレンツォ・イル・マニーフィコの孫娘と結婚した黒隊長ジョヴァンニである。押し寄せる大群を前に、小部隊で気勢をかけながら勇猛果敢に戦い互角に戦ったのである。ポー川をはさみ、ゲオルグはこの勇敢な若者を賞賛まなざしで見た。

しかし圧倒的な近代兵器を駆使するゲオルグの軍に苦戦を強いられる。

法王からの援助は途絶え気味で、物資も兵力も不足する中巧みな戦術で神出鬼没に敵陣をかく乱し、戦果を上げたのである。

しかしついに砲弾で負傷した足の手術が原因で残念ながら死亡する。

その頃スペイン軍と合流した神聖ローマ帝国軍は3万の兵で南下していた。

教皇軍はサンタンジェロに篭城したものの力尽き逃走。

その後1529年6月29日バルセロナで条約が結ばれ、メディチ家のフィレンツ帰還が許された。

フィレンツェ 散策 18

2010年01月10日

フランス王ルイ12世が死亡し、フランソワ1世即位する。

ここからイタリア、フランス、スイス、スペイン、神聖ローマ帝国、オランダ、オーストリアの貴族勢力が執拗に絡み合い権力争いへと突入してゆく。

まず、教皇レオ10世はフランソワ1世の叔母オルレアン公妃の妹とメディチ家のジュリアーノとの結婚を画策し、フランソワ1世の懐柔に勤める。

しかしフランソワ1世もまたかつてシャルルが野望を抱いたように、イタリアでのフランスの権利の行使を決意し、密かに侵略の口実を探る。

そのため教皇レオ10世の申し出にはのらりくらりと話をのばし一向に進展の様子を見せない。

教皇レオ10世は止む無く、スペイン王フェルデナンド、神聖ローマ帝国皇帝、スイスと同盟を結ぶことにする。

そんな中、フランソワ1世は10万の兵を従えアルプスを越えたのである。

不意をつかれたイタリア、スペイン、神聖ローマ帝国のイタリア同盟軍は急遽兵を集め応戦態勢に入る。

カドナール指揮下のスペイン軍、シオン枢機卿マティアス・シネル率いるスイス傭兵軍、総司令官ロレンツォ・ディ・メディチと教皇特使ジュリオ枢機卿率いるフィレンツェ軍である。

イタリア同盟軍はまず様子を見るため、ロレンツォとジュリオがフランソワ1世と交渉する戦術に出たが、フランス軍は一気に軍を進めマリニャーノでスイス軍を一蹴し、ミラノを占拠、そしてボローニャに進軍するに至った。

後手に回ったイタリア同盟軍はやむなくボローニャで教皇との協議を提案した。

教皇との協議となればフランソワ1世も応じる。

しかし協議は大いに難航し、結局優勢であるフランス側の主張を受け入れざるを得なかった。

そして教皇領であった北イタリアの多くが、フランスの友好国であるフェラーラに返された。

さらにフランスはナポリの権利を主張してきた。

ここに及んでは立場が悪すぎた、教皇は反対しつつも柔軟性を示し、即決は出来ない為会議にかけて結論を出すことを示唆し何とかこの場をしのいだのである。

メディチ家にとっては収穫があった。忠誠のしるしとしてのジュリアーノはフランス王国に留まり、アムール公となることで、フランソワ1世に使えることとなったのである。

フィレンツェ 散策 17

2010年01月02日

そして、この大きな傷跡を残した戦争に、フィレンツは何の役割も果たさなかったのである。

サヴォナローラは「神の使者」を理由に神聖同盟に対し何の関わりも拒否したのである。

自らを神の代弁者と主張するに至っては、教皇も不快の念を隠さず、ローマに出頭して弁明せよと迫った。

それを断ると、教皇はサヴォナローラを破門してしまった。しかしサヴォナローラは教皇の指示に反し、「教皇に従うことは、神に反する」と明言してしまったのである。

教皇の怒りを恐れたフィレンツはサヴォナローラの追放を決意する。ここに至っては市民も愛想を尽かし、暴徒と化した市民によって吊るし首にされ、市内を引きずり回され、アルノ川に捨てられたのである。

 

財宝を失い、宮殿と別邸を没収されたメディチ家は、流浪の一族のようにヨーロッパ中をさまよった。

ピエロはイタリアにとどまり、ロマーニャに帝国を打ちたて、イタリア統一に動き出したチェーザレに合流したこともある。チェーザレはフィレンツにメディチ家を再興させて、トスカーナに貴重な同盟国を築こうした。しかしフィレンツはピエロの指導下でのメディチ家の復興を、まったく望んでいなかった。

 

チェーザレの野望は、先ずフランスのナポリ王国支配の野望を利用する、イタリアを統一した暁には教皇の名の下ナポリはフランスの一部と約束する、しかし本心は統一後の強力なイタリアからフランスを追い出すというもの。

 

一方ピエロはフィレンツェからの風当たり強さに失望しイタリアをあきらめ、フランスに逃亡するのである。フランス軍に加わったピエロは1503年スペイン軍との戦いで破れ逃亡中に船の転覆で死亡、ピエロの死亡後、メディチ家の当主は弟のジョヴァンニが引き継いだ。

ジョヴァンニはリヨンのメディチ銀行の支店を見ながらフランスで聖職者の道を選んでいた。

教皇がシクストゥス4世からイノケンティウス8世となると、ジョヴァンニに出世の道が開け、16歳のジョヴァンニは枢機卿に推薦された。そしてフランスから、ローマへと帰還していたのである。

しかしフィレンツ政府がローマ期間を耳にするや否や首に賞金をかけるとジョヴァンニはローマを離れ、ミュンヘン、ブリュッセル、フランドル、ルーアン、マルセイユ、ジェノヴァと回り、ローマに再び帰還する。

教皇アレッサンドロ6世とフィレンツの対立が起こったころ、ジョヴァンニは法王の利用価値のためにローマに暖かく迎えられていた。

その後ジョヴァンニは神聖盟国軍に合流し、フィレンツェの奪還を目指す。フィレンツェ市政府はサヴォナローラへと変遷したのはロレンツォ豪華王亡き後のメディチ家のピエロの責任であり、その弟ジュリアーノも同罪と主張し、帰還を拒否し、傭兵を雇い戦う意思を見せた。しかし指導者なきフィレンツェにジュリアーノが市内にメディチ派を編成するのは簡単なことであった。

内部と精通したジュリアーノは市政府の指導者を追い出し、フィレンツの僭主として返り咲いたのである。教皇ユリウス2世の死後、ジョヴァンニ枢機卿はレオ10世として教皇に選出された。

イタリアの政治に再びメディチ家が帰ってきた。そして目指すはイタリアの大地から外国勢力を追い払うことである。