その後フェルデナンドの死によりスペインの力が弱まると、マクシミリアンの死後神聖ローマ帝国を継いだカール5世大公がスペインとナポリを支配下に置いた。
オランダ、オーストリア大公国を含む強大な力を懸念し教皇レオ10世とフランスは妨害活動を行うが、それに失敗すると、教皇レオ10世は密かにカール5世と取引を開始した。
おりしもドイツではアウグスチノ会の修道士、マルティン・ルターによる宗教改革「聖書を唯一のキリスト教の源泉とする」が厄介な問題として台等しており、教皇レオ10世はルターの抹殺をカールに依頼することにした。
カールは引き受ける代償として、イタリア内のフランス領に攻撃をかけた時の援助を求めた。
教皇は条件付で了承し、カールはイタリア進軍の準備に入った。
教皇と神聖ローマ帝国の講和が成立した中、教皇レオ10世は最後の仕事に取り掛かる。
神聖ローマ帝国との講和は一時的なものであり、あくまでもイタリアそして何よりメディチ家のフィレンツェの再興をかけた力のよりどころは、やはりフランスとの関係強化が唯一無比なのであった。
そしてようやくウルヴィーノ公ロレンツォとフランソワ1世の従妹マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュとの結婚にこぎつけ、フランス王室にメディチ家の糸を結んだのである。
1518年3月に結婚式が執り行なわれ、1519年4月に一人の娘が誕生、
名はカテリーナとつけられた。
一方、かのロレンツォ・ディ・メディチ~イル・マニフィコ~の末裔に同じ1519年男児が誕生する、名はコジモとつけられた。
教皇レオ10世がこの世を去ると、次期教皇選出の2ヶ月にも及ぶ異例の長いコンクラーベの末に、フランスが賛成に回った。
そして、ジュリオ・ディ・メディチがクレメンス7世として教皇に即位。
そのフランスの思惑通り、カール大帝の横暴が徐々に強まると、クレメンス7世は再びフランスと手を結んだ。
これに危機感を持ったカール大帝は将軍「ゲオルグ・フォン・フルンズベルグ」率いる大部隊を結成しイタリアに押し寄せた。
ここに勇気ある軍人が登場する。ロレンツォ・イル・マニーフィコの孫娘と結婚した黒隊長ジョヴァンニである。押し寄せる大群を前に、小部隊で気勢をかけながら勇猛果敢に戦い互角に戦ったのである。ポー川をはさみ、ゲオルグはこの勇敢な若者を賞賛まなざしで見た。
しかし圧倒的な近代兵器を駆使するゲオルグの軍に苦戦を強いられる。
法王からの援助は途絶え気味で、物資も兵力も不足する中巧みな戦術で神出鬼没に敵陣をかく乱し、戦果を上げたのである。
しかしついに砲弾で負傷した足の手術が原因で残念ながら死亡する。
その頃スペイン軍と合流した神聖ローマ帝国軍は3万の兵で南下していた。
教皇軍はサンタンジェロに篭城したものの力尽き逃走。
その後1529年6月29日バルセロナで条約が結ばれ、メディチ家のフィレンツ帰還が許された。