フィレンツェ 散策 15

2009年12月20日

開戦の口実はミラノ公の叔父ロドヴィーコ・スフォルツァーが与えた。

ミラノ公ジャン・ガレアッツォは1490年に成人に達したが、イル・モーロは摂生の権力を離そうとしなかった。

ガレアッツォは政治に無頓着であったが、妻のイザベラは権力への執着心が強く、祖父のナポリ王フェランテに泣きつき、相応の権力につけるように協力を要請した。

イル・モーロはその動きに反応し先手を打つ、シャルル8世をそそのかすことにして、その資金の調達をした。

しかしその矢崎の1494年ナポリ王フェランテは世を去ってしまう、この好機にシャルルは動きを加速する。

再びナポリ王国とエルサレム王国に対するフランスの権利を通告して、イタリア侵略の準備を開始。そしてナポリに対し、フェランテの後継者アルフォンソ2世の退位を迫り、9月に入り、侵略は開始された。

アルプスを越えてロンバルディアに侵攻しミラノに入る、シャルルは表向きミラノ公ガルアッツォに敬意を表したものの軽蔑を隠さない。

そしてガレアッツォは3日後奇病で即死(毒殺とされる)。

イザベラは泣いてナポリ侵攻計画の変更を訴えるが、イザベラも病死。

こうしてイル・モーロは自らミラノ公を宣言。

シャルル8世率いるおびただしい数のフランス軍と、だらだらと後を追うコック、場丁、ラバ追い、蹄鉄工、楽士、従軍商人、売春婦、廷臣などの非戦闘員はほとんど抵抗を受けることなく、前進を進めた。

教皇領内ではこの進軍を阻止しようとする試みは一切なかった。

そんな中、ヴェネツィアは中立を宣言。

トスカーナに近づくと、フィレンツェに特使を送り、アンジュー家の要求の正当性とトスカーナ通過の許可を求めた。

ピエロは傭兵隊長を雇い、これ以上のトスカーナ侵攻を阻止しようと試みるが、大多数のフィレンツェの指導者は、抵抗は無意味だと主張する。

追い詰められたピエロはメディチ派からも見放されて、なすすべの無い自分に絶望を悟った。

無謀にもピエロは最後の手段に出る、かつて父ロレンツォがしたように敵陣に直接乗り込んでの談判である。

シャルルは快く彼を迎えた、が明らかに軽蔑し、頭ごなしに要求を突きつけた。

その要求とは巨額の賠償金と、サルツァーノ、ピエトラサンタ、サルッツァネッロ、リブラフラッタの要塞及びリヴォルノを領有する権利であった。

ピエロはおびえきって即座に要求を受け入れてしまう。

大失態の末フィレンツに戻ったが、市政府は彼の庁舎への入場を拒否した。

ピエロは妻と2人の子供、従弟ジュリオを連れてヴェネチアに脱出せざるをえなかった。

ピエロの逃亡が伝わると、シャルルはメディチ家の宮殿に入場し、全ての品を略奪した。