フィレンツェ 散策 16

2009年12月26日

シャルルの目的はフィレンツではない。ナポリをフランスのものにし、あわよくばローマ陥落?を狙い南下を始めた。南進するシャルルは何の抵抗も受けずにローマに入る。

 

残されたフィレンツェは荒廃し、市民はサヴォナローラの予言を信じるようになる。その指示に従い悔い改めた市民は、祈りを糧とし、心の腐敗を呼ぶ贅沢な品々、貴重な複写本、まれに見る絵画の数々は広場にて燃やされた。

歴史的には、おおくの貴重な資料が灰と化し、その損失は計り知れなかった。

ここにサヴォナローラの市政が始まったのである。

 

一方ローマは震え上がった、報告によれば延々と続くフランス軍の後には略奪と強姦が繰り返されていた。

しかし、何の抵抗も出来ない無力感を感じながら、法王アレッサンドロ6世はシャルルのローマ入りを待たねばならなかった。

あとには引けない無力の法王はここで大博打に出る。

長旅で汚れたシャルルの一団に対し、最高に煌びやかな皇衣と従軍兵で厳かに出迎えたのである。

そしておびただしい兵に守られて登場したシャルルに対し、内心震えながらも

「謁見を許す、近くに来て膝間づくが良い」

と威厳に満ちた声で申し渡した。

思わずシャルルは膝間づき、足元に接吻をしてしまう。

シャルルは法王にひれ伏したのである。

ここで形成は決まった。

シャルルは、ローマを征服できたのに、何もせず通り過ぎたのである。

 

そしてシャルルはナポリに向かった。震え上がったナポリのアルフォンソ2世は王位を投げ出し、シチリアの修道院に逃げてしまった。

ナポリ人は、シャルルをアラゴン家からの解放者として、熱狂的に歓迎した。この歓迎にシャルルはナポリに長居をしてしまった。

その隙を突いたのが、アレッサンドロ6世の妾の子チェーザレ・ボルジアである。法王アレッサンドロはフランスの脅威に抵抗するにはイタリアを統一する必要を感じ、その野望をチェーザレに託す。チェーザレは教皇の名の下にその野望の実現へと動き出した。

教皇は神聖同盟をイタリア全土に呼びかける。

応じたのは、ロドヴィーコ・スフォルツァー、シャルルの成功に嫉妬した、イル・モーロ、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン、そして当然アラゴン家のフェルデナンド、こうして強力な神聖同盟軍か結成された。

軍を率いるのはマントヴァのフランチェスコ・ゴンザーガである。

1495年7月、ついにタロー川の土手で両軍は衝突した。

シャルルの砲兵と騎兵の前では、神聖同盟の傭兵軍は物の数ではなかった。

戦いはあっけなく終わったのである。

13世紀以後のイタリアの戦争で、どの戦争よりも残忍で、血塗られた戦争であった。イタリア軍の損害はおびただしかった。しかしこの敗戦の中で踏みとどまり、フランス軍重要部隊に襲い掛かり、捕獲した中にシャルルマーニュのものとされる遺品があったのを利用し、マントバ候は勝利を宣言した。

8月を過ぎた頃、シャルル軍は依然として強い勢力を保ちながらもイタリアに留まる理由を失いアルプスを越えフランスに帰国した。

イタリア人は、その美徳、才能、富、過去の栄光と経験そして軍事技術の熟練を持ってしても、北方の残忍な人種の進軍には歯が立たないことを思い知らされたのである。

フィレンツェ 散策 15

2009年12月20日

開戦の口実はミラノ公の叔父ロドヴィーコ・スフォルツァーが与えた。

ミラノ公ジャン・ガレアッツォは1490年に成人に達したが、イル・モーロは摂生の権力を離そうとしなかった。

ガレアッツォは政治に無頓着であったが、妻のイザベラは権力への執着心が強く、祖父のナポリ王フェランテに泣きつき、相応の権力につけるように協力を要請した。

イル・モーロはその動きに反応し先手を打つ、シャルル8世をそそのかすことにして、その資金の調達をした。

しかしその矢崎の1494年ナポリ王フェランテは世を去ってしまう、この好機にシャルルは動きを加速する。

再びナポリ王国とエルサレム王国に対するフランスの権利を通告して、イタリア侵略の準備を開始。そしてナポリに対し、フェランテの後継者アルフォンソ2世の退位を迫り、9月に入り、侵略は開始された。

アルプスを越えてロンバルディアに侵攻しミラノに入る、シャルルは表向きミラノ公ガルアッツォに敬意を表したものの軽蔑を隠さない。

そしてガレアッツォは3日後奇病で即死(毒殺とされる)。

イザベラは泣いてナポリ侵攻計画の変更を訴えるが、イザベラも病死。

こうしてイル・モーロは自らミラノ公を宣言。

シャルル8世率いるおびただしい数のフランス軍と、だらだらと後を追うコック、場丁、ラバ追い、蹄鉄工、楽士、従軍商人、売春婦、廷臣などの非戦闘員はほとんど抵抗を受けることなく、前進を進めた。

教皇領内ではこの進軍を阻止しようとする試みは一切なかった。

そんな中、ヴェネツィアは中立を宣言。

トスカーナに近づくと、フィレンツェに特使を送り、アンジュー家の要求の正当性とトスカーナ通過の許可を求めた。

ピエロは傭兵隊長を雇い、これ以上のトスカーナ侵攻を阻止しようと試みるが、大多数のフィレンツェの指導者は、抵抗は無意味だと主張する。

追い詰められたピエロはメディチ派からも見放されて、なすすべの無い自分に絶望を悟った。

無謀にもピエロは最後の手段に出る、かつて父ロレンツォがしたように敵陣に直接乗り込んでの談判である。

シャルルは快く彼を迎えた、が明らかに軽蔑し、頭ごなしに要求を突きつけた。

その要求とは巨額の賠償金と、サルツァーノ、ピエトラサンタ、サルッツァネッロ、リブラフラッタの要塞及びリヴォルノを領有する権利であった。

ピエロはおびえきって即座に要求を受け入れてしまう。

大失態の末フィレンツに戻ったが、市政府は彼の庁舎への入場を拒否した。

ピエロは妻と2人の子供、従弟ジュリオを連れてヴェネチアに脱出せざるをえなかった。

ピエロの逃亡が伝わると、シャルルはメディチ家の宮殿に入場し、全ての品を略奪した。

フィレンツェ 散策 14

2009年12月15日

1592年~1537年のメディチ家

 

ロレンツォ没後、あとを受け継いだ22歳のピエロ・ディ・メディチは「未だに甘やかされて育った気まぐれな子供」でおよそ人を引きつける魅力に欠ける人物であった。

メディチ家の支配体制は、もはや永続的なものとなっており、支持者の意見を無視してもやっていけると思ったのか、ビジネスと公務には目もくれなかった。公務は秘書のピエロ・ドヴィッツィー・ビッビエナに、又崩壊しつつあった銀行の管理はおよそ適任とはいえない大叔父ジョヴァンニ・トルナヴォーニにまかせっきりであった。フィレンツェは次第に浪費と快楽が蔓延し、経済状態も秩序も崩壊してゆく。

この頃フェラーラ生まれのジローラモ・サヴォナローラがボローニャのドメニコ会派からサン・マルコ修道院の「教導」として派遣されてきた。

サヴォナローラは素行を改めなければ、おそるべき天罰を受けるであろう。

人々を救う道は唯一つ、初期キリスト教会の単純さに戻る以外にない。

アリストテレスとプラトンに背を向けよ。

贅沢をやめよ。

享楽を追い求めるな。

ギャンブル、トランプ、謝肉祭、競馬、華美な衣類、香水、虚飾を捨てよ。

聖母マリアを売春婦の様に描いた絵はことごとく抹殺せよ。

政治制度を改革せよ。

国家は祈りによって統治されるのではないと公言したコジモは過ちを犯した。

祈り以外に国を治める方法はないのだ。

フィレンツよ、悔い改めよ、まだ時間はある。

今災難が降りかかるのは、祈りを忘れ、享楽に身を染めた罪のせいだと説き歩いた。

遅くはない今から悔い改め、人の自由より祈りを優先すべく教えたのである。

混沌とした中、様々な出来事が続いてゆく。

フランス王ルイ11世が世を去った。

後を継いだシャルル8世は精力にあふれ、野心に燃えた若者だった。

よく整備された常備軍を華々しく活用し栄光を手に入れようとしていた。

しかし英雄的な騎士という役割はシャルルの柄ではなかった。近眼の小男で大きな鉤鼻、いつも開いている分厚い唇がひげに隠れ、頭と手はいつも麻痺したようにピクピク動く。背を丸めてびっこで歩き、大食と好色は度肝を抜いていた。

彼は明らかに誤った教育を受けたと思われ、その立ち振る舞いは人々に警戒の念を抱かせた。

快活で美女の誉れ高いブルターニュ公妃アンヌに言い寄り、彼女がオーストラリアのマクシミリアンと婚約しているにもかかわらず馬に載せて連れ去り、結婚してしまった。

このようなエピソードを持つ若者を軽視すべきでないことは周囲の誰もが警戒していた。

そんな気質のシャルルは機会があればいつでもアルプスを越えてイタリアに進軍する用意があったのである。

フィレンツェ 散策 13

2009年12月05日

☆ロレンツォのパトロン活動

ロレンツォはことのほか輝かしい古典学者、作家、芸術家のサークルの人々と談笑するのを好み、別邸に集めては多くの時を過ごした。

コジモほどゆとりのなかったロレンツォはコジモが手がけたフィエゾレの大修道院など未完成のまま残したが、芸術家へのパトロン活動や、古書や絵画、彫刻などコレクションの拡大に努めている。

アンジェロ・ポリッツァーノ 

ルイジ・プルチ 

マルシリオ・フィッチーノ

ジュンティーレ・ヴェッキ

アントニオ・スカルチャル 

フィリッピーノ・リッピ

ドメニコ・ギルランダイオ

サンドロ・ボッティチェッルリ

アントニオ・ポライオーロ

ギルランダイオ

ヴェロッキオ

レオナルド・ダ・ヴィンチ

  ロレンツォに認められ、やはりメディチ家の保護を受ける

ミケランジェロ・ヴォナロッティ

  メディチ家の一員としてロレンツォから熱い保護を受ける

ピサ大学、フィレンツェ大学への基金提供

ヨハネス・アンギュロプロス、 テオドロス・ガザ、 デメトリオス・カルコンヂュラスらの古典学者が壇を取り、唯一ギリシャ語が十分学べる大学としてヨーロッパ中から学生が集まった。

これらの学生がフィレンツェのモダンと文化とルネッサンスの思想を自国に持ち帰ることにより、ルネッサンスはヨーロッパ中に拡大し花開くことになった。

 

1492年 ロレンツォはこの世を去った。

この年、コロンブスが大航海に出港する。それは新しいヨーロッパの幕開けであった。

ローマではアレクサンデル6世が法王に就任、いよいよチェーザレが法王の名の下イタリア統一の野望を抱き、動き出す。

これよりメディチ家とフィレンツェ(トスカーナ)は暗黒の時代へと突入してゆくになる。

1494年、チェーザレの要請を受けたフランスシャルル8世のイタリア侵略でフィレンツェは主を失った失望と、主導者を欠く混乱から、簡単に都を明け渡すことになる。

そしてその後32年間メディチ家はフィレンツェから追放されることになるのだが、メディチ家はしたたかに再浮上の布石を打ちながら、じっと機を待つのである。

その苦しい立場にありながら、隠し財産を使い二人の法王を輩出し、その法王の命を受けたジョヴァンニ・ディ・メディチは北部前線ですさまじい戦いを続け、イタリアの名誉と同時にメディチ家の名誉をジワリ世に知らしめる活躍をするのである。