フィレンツェ 散策 12

2009年11月18日

これを受け教皇は特使をフィレンツェに送り「ロレンツォの法廷引渡し」を求めた。

当然フィレンツェはこれを拒否をする。

教皇はナポリのフェランテを使い、「彼らの全財産はローマに帰するものとする」と宣言し、フィレンツェに宣戦布告した。

教皇の宣戦布告を受けても、イタリア内のフィレンツェの友好国は実行に移つろうとはしなかった。

フィレンツと友好関係にあるフランスは教皇に対し異議を述べ、大公会会議召集をほのめかし、ナポリのアンジュー家の権利を蒸し返し、逆に圧力をかける。

それでもナポリ進撃の報が入ると、ミラノ、ボローニア、ローマのオルシーニ家は用兵を雇い、フィレンツェに援軍を送る事を決意。

しかしこの戦争はフィレンツェが思うほど悲惨なものにはならなかった。

それは15世紀のイタリアの戦争習慣と幸運によるものであった。

つまり、

1・正義に基づいた戦争ではなく、私欲によるもので、権力に義理立てした戦争であったことが明白だった。

2・教皇には正直うんざりしていた。

3・戦争での兵力減少は、即座に自国の滅亡へと繋がる。

4・何世紀も本当の戦争はしていない。

ロレンツォはここでこの事態の収拾に乗り出す。

「責任はロレンツォ我一人にあり」とし大胆にも単身敵国ナポリに乗り込んで掛け合う行動に出る。

ナポリ王フェランテは面食らうが、この勇敢な行動に対し誠意をもって対応したのである。

ロレンツォは6千フローリンを持参してまず、

1・百人のガレー船の奴隷に自由を施してやり

2・貧しい人々に持参金を与え

3・多くの慈善事業の寄付をする

そうして10週間滞在し、ロレンツォはフィレンツェの正統性と内紛のおぞましさを説いた。

さらにフランス、オスマン帝国はイタリアの内紛を持ち望んでおり、両国の動きに注目しないとイタリアは侵略される可能性が大である、と力説したのである。

フェランテは教皇の腹の黒さと、ロレンツォの誠実さを計りにかけ、ロレンツォを指示した。

これによりナポリの参戦は終結したのである。

教皇との確執はひきずったままで、ロレンツォはなお厳しい状況に置かれてはいた、とりわけ銀行業務ではロンドン、ブルージュで焦げ付きが回収不可能となり破綻、ローマでは教皇は一切の返却を拒否し、メディチの財政は悪化していったのである。

そのような状況下1480年突然にトルコがイタリアに襲撃をかけオトラントに上陸、北上の気配を見せる。

そうなるとイタリアは一気に1つにまとまった、これが「ザ イタリア」である。急遽各国からローマに元首が呼ばれ会議が開かれた。

しかしこの戦争は肩透かしに終わる、スルタンの王が自国で急死したため、トルコ軍はあっさりと引き上げて、イタリアに平和が戻るのである。

そしてロレンツォの宿敵、教皇シクストゥス4世が1482年に死去

次の教皇には、チェーザレ・ボルジアの父「アレクサンデル6世」が就任する。