フィレンツェ 散策 10

2009年10月23日

モンテセッコはロマーニャ地方に向かいトレンティーノ、イモラ、チッタ・ディ・カステッロで同僚の傭兵隊長とクーデターの秘策を練る。

その後アペニン山脈を越えてフィレンツに入り、ロレンツォとの会談を求めた。

ジロラモの書簡を渡す事が目的のこの会談だが、モンテセッコは、ジロラモは争いの結末は明白であり、法王の名の下、せめて同盟を結びたいと希望すればしかるべき処置を持って対処すると言っていると、高慢な申し出を伝えた。

対するロレンツォは冷静に受け止めた、トスカーナは公国でありその栄えは商に秀でたゆえの豊かさであり、人々の努力で得たものである。法王に対し礼を尽せど、決して敵対や不利益を与えたことは一度もない。フィレンツェを世界一の都市に仕上げた自負から申せば、その信用は我らにあり、然るに法王にあらず。と、今回の申し出がいかにフィレンツと法王に不利益かを語り、カファッジョーロのメディチ家の別邸で会談の約束をした。

 

雄弁に語るロレンツォは聞き伝わるイメージとはかけ離れていた、特にジローラモの話しに及ぶと不仲の間にかかわらず、一言も悪口を言わずその先見の明と功績をたたえるものであった。次第にロレンツォの人物に魅せられたモンテッセッコは、自分が請け負った仕事に後悔し始めたのである。

しかし計画は後戻りできなかった、モンテセッコはピッティー家の古老ヤコポ・ディ・パッツイーと計画の打合せをした。ヤコポは当初しり込みした、過去に何度も転覆を企てた物の全て失敗に終わっていたからである。が、教皇の特命と知るや今度は実現すると確信した。

計画はロレンツォとジュリアーノの同時殺害である。

しかしなかなか実行までには障害や偶然が重なりうまくことが運ばない。

1度目は・ロレンツォをローマに呼び密かに殺害、ジュリアーノはフィレンツェで殺害

 これにはロレンツォがローマ行きを不穏に感じ、断ったために失敗

2度目は・教皇の甥の姉妹の子、ラファエレ・リアーリオの枢機卿就任祝いに招待し二人を殺害する

 このときはジュリアーノ怪我で不出席のため計画は延期された。

3度目は・ジュリアーノの怪我の回復を待ったあと、ラファエッレがかねてから噂のメディチ家の財

 宝を人目みたいと申し入れ、ロレンツォは快く受け入れ、ついでに祝宴を開くことを計画。あちこ

 ちからの大使も招待し、この雑多の中での殺害計画。

 結局ジュリアーノが目の炎症で欠席をしたために延期となるのである。

 

これ以上の計画変更は情報漏れと、待機している兵士の士気低下の懸念もあり、サンタ・マリア・デ

ッレ・フィオーレ教会(ドゥオーモ)のミサの最中に実行されることになった。

 

ここで、次第にロレンツォ暗殺に疑問を抱き始めたモンテセッコが離脱の機会と判断し「聖堂内での殺害は信義に反する」と言い張り計画参加を断ったのである。

モンテセッコほど権の達人ではなかったが、2人の若い僧マッフェイとステファノがすぐに名乗りを上げた為、モンテセッコへの執拗な説得は行われなかった。

しかしすでに計画は少しずつ狂い始めていた。

フィレンツェ 散策 9

2009年10月17日

シクストゥス4世は思い通りにジローラモにイモラを与えると、今度はもう一人の甥ジョヴァンニ・デッラ・ロヴェーレが教皇にねだるがままに、領地拡大を画策。ジョヴァンニはローマの長官で、ピエモンテのモンドーヴィの領主だったが法王は甥の要求に答え、ロマーニャのウルビーノ公の長女との結婚を整え、ロマーニャはジョヴァンニの領土となったのである。

そして、さらに教皇はフィレンツェの前進基地チッタ・ディ・カステッロから領主ニッコロ・ヴィテッリの追い出しにかかり息のかかった者の管理下でフィレンツェに睨みを利かせようと画策。

これでフィレンツェと教皇は一発触発の状態になった。

ロレンツォはヴィテッリを救う為に6千の兵を集めチッタ・ディ・カステッロに援軍を送った。しかし強力な教皇軍に降伏を余儀なくされると、フィレンツェは領主ニッコロ・ヴィテッリを快く迎えたのである。

 

ローマの無謀で強引な圧力に対抗すべくロレンツォは、北イタリアの平和を維持する為フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィアの同盟を提案する、しかし教皇はこの同盟を教皇に対する敵対の表れとみなし、激怒する。

さらにかつてから同盟国であったナポリは、この同盟に何の相談も受けなかったとして不満を表明、ここで今まで不仲であった教皇との利害が一致し、ナポリは教皇の側に立つことになる。

 

1476年ミラノで、サン・ステファノ祭に当主ガレッツォ・マリア・スフォルツァが暗殺者の手によって死亡。一気に王位継承の内紛が起こり、ロレンツォはこれで援軍の望みが絶たれた。

 

一方フィレンツェでは、教皇の銀行としてローマで息を吹き返した反メディチ家の筆頭パッツィー家は、この期につけ込みフィレンツェの政権転覆を教皇にせまる。

フランチェスコ・ディ・パッツィーはまずかつて教皇の傭兵隊長であったモンテセッコを雇う。

教皇の甥の一人ジロラモ・リアーリオがこの話に乗る、ジロラモはピサの大司

教フランチェスコ・サルヴィアーティーに声をかける。

そしてジロラモとサルヴィアーティーはモンテセッコを教皇に引き合わせた。

 

教皇は野心家の金で動くモンテセッコを気に入り、「この頭の痛いフィレンツェ問題の早急の解決」を言い渡した。

「しかし、この件はロレンツォとジュリアーノ他関係者の死なくして達成できないと存じますが」

「愚か者めが、誰であろうと法王たる者、決して殺しは容認できぬ、ロレンツォが悪党であり、我らに悪をなすとしても、やつの死に同意を与えることは我らが役職に反する。ただロレンツォの失脚を強く望んでおる。」

「万全の注意を払いましょう、しかし万一の場合があります。」

「繰り返すぞ、私は心からこの変革を望んでおる、では行け、人殺し以外は何をしてもよろしい。必用であれば武装兵であれ、何であれあらゆる援助を惜しまぬ」

フィレンツェ 散策 8

2009年10月10日

イル・マニフィコ ロレンツォ・ディ・メディチ登場

痛風のピエロは病気の悪化から早々に政界から引退を余儀なくされ、ロレンツォ・ディ・メディチが権力を受け継いだのは若干20歳であった。

強壮、頑健、聡明、エネルギッシュ、メディチ家当主の中で第1級の貴公子であり、およそ無骨ながら、人を捕らえて離さない物腰と、射抜くような黒い鋭い眼光は若輩ながら威光を放っていた。しかし才能豊かな当主の行く手には多くの苦難が待っていた。

まず第1に海外に手を広げた銀行が融資の焦げ付きで回収不能の事態が発生。また法王は権力を操作し私欲に走り、法王の名の下領土拡大に動き出す。その融資を当時ヨーロッパ1の大銀行メディチ家に頼むが、回収の見込みは端から当てにできなかった。

そしてフィレンツでは、ピエロの時代に発生した権力の転覆事件ははじわじわと再び動き始める。

 

まずローマでは新教皇シクストゥス4世が誕生し貧しい出身がなせる業なのか、近親に地位、金、土地、権力を与え続けた。統治には関心がなく、関係者の不満は金慢政策で懐柔したのである。

教皇の甥の一人であるピエロ・リアーリオにはどう見ても力不足にもかかわらず、コンスタティノープル大司教、聖アンブロシウス大修道院長、トレヴィーゾ、メンデ、スパラト、セニガッリア司教、そしてフィレンツェ大司教の座を次々と与え続けた。

もう一人の甥、ジロラモ・リアーリオも実に執拗に教皇にせびり続ける。肥満した粗野で乱暴な若者はイモラ(フィレンツェの北方)に目をつけた、ここを拠点にロマーニャに大きな教皇領土を築こうと提案したのである。

イモラは最近ミラノが買い取ったばかりであり、教皇はミラノ公の庶腹の娘カテリーナ・スフォルツァに眼をつけ、ジローラモと結婚させてイモラを買い取ることにした。

早速教皇はメディチ銀行にイモラを買い取る資金調達を依頼した。

ロレンツォは困惑した、なぜならイモラはフィレンツェにとっても重要な要所であり、ここを教皇の領地とされるとフィレンツェは北と南に挟み撃ちになってしまう。

もとよりロレンツォはイモラをフィレンツェに取り込み、守りを強化しようと考えていた矢先であった。

教皇はかつての友好関係など無きことのように、突然己の利益と近親への計らいに走りだし、しかもローマと法王庁の金庫番としてローマに尽くしたフィレンツに対して、心理を踏みにじる要求を押し付けてきたのである。

ロレンツォは事を荒立てないように、慎重に適当な理由で断ることにした。

しかしシクストゥス4世は執拗にロレンツォに融資を要求した。

そしてロレンツォが融資にこだわることに腹を立てて、何とかロレンツォを屈服させるべく策へと動き出す。

ここにメディチ家と敵対するパッツィー家と教皇の利害は一致し、パッツィー銀行に融資を依頼することによりロレンツォのローマからの締め出しが画策された。

パッツィー銀行は喜んで融資に応じ、教皇庁の会計はパッツィー家が請け合う事となり、メディチ銀行は法王庁からの撤退を余儀なくされたのである。

フィレンツェ 散策 7

2009年10月01日

☆コジモと芸術家

ドナテッロ1386~ 彫刻家

フィレンツェ生まれ、ホモでコジモを愛する、コジモは生涯面倒を見る

・大理石像≪聖ジョルジョ≫ ・ブロンズ像≪ダヴィデ像≫

ギベルティー 彫刻家、建築家

フィリッポ・リッピ 画家

 女郎買い、かっぱらい、嘘つき、飲んだくれ、早々に修道修業をやめる。マザッチョへの挑戦欲だ

 けが取り柄で、サン・アンブロージュ教会の修道女のために実に美しい祭壇画を描き、コジモの目

 に留まる。≪サン・ステファノ教会フレスコ画にコジモの庶子カルロの肖像描く≫

マザッチョ(トマソ・グイディ)14011428 画家

 ブランカッチ礼拝堂のフレスコ画はミケランジェロ、ラファエッロに強い影響

フラ・アンジェリコ(ジョヴァンニ・ダ・フィエゾーレ)1387~ 画家

 ムジェッロ地方のヴェッキオ生まれ、素朴で温和な気高い修道僧として生涯宗教画を描く

 ≪受難のキリスト≫ ≪東方博士の礼拝≫メディチ家専用庵室はコジモの依頼

 

146481日 コジモ死去 市政府は「祖国の父」の称号をコジモに与える

 

☆痛風病みのピエロ

48歳でコジモの後を受け継ぐ

銀行家としては才を発揮できず、多くの負債を抱えることになる

1448年統領、1461年ゴンファニャーレ(市政府長官)に就任

細やかな神経に生まれ持った素質も手伝い、ピエロは傑出した外交官となった、フランス王ルイ11世は大層ピエロを気に入った。

市政府は二人の息子ロレンツォとジュリアーノが豊かな才能を発揮しており、その将来を嘱望しピエロにコジモが得た特権をそのまま与えた。

この時ロレンツォは15歳、ジュリアーノは11歳になっていた。

特にロレンツォは早熟の才を発揮した。メディチ家に伝わる美貌こそ無かったが、異相とも言うべき土気色の容貌は、力強く、人を捕らえて離さない魅力があった。筋骨たくましいロレンツォは多岐にわたる十分な教育を受け、15歳になるまでに同年代の少年にはひるむような大役をこなしている。

・外交官特使としてピサでナポリ王フェランテの次男フェデリーゴと会見。

・ミラノでスフォルツァの娘イッポリートとナポリ王の長男との結婚式に父の名大で出席。

・同盟国ボローニャでは最有力市民のベンティベンティヴォーリオと会

・ヴェネツィアでドージェ(元首)と接見

 フェラーラでエステ家から滞在の要請を受け

 ナポリでフェランテ王と会見

1466年ローマにて新教皇パウルス2世の即位に際し名大で祝賀を述べる

トルファでの明礬採掘権の交渉

叔父のトルナブォーニローマ支店長に業務改善の会談

 

しかしフィレンツェでは、また権力をめぐりルカ・ピッティーがメディチ家失脚の画策を始めた。

ミラノのスフォルツァーが死に、その影響力が減少すると、ピッティー派はヴェネツィアとの関係を戻すべきだと主張しメディチ家の失策を迫った。早速密者がヴェネツィアに送られ密約が交わされた。

ピエロの通風が悪化し、カレッジに療養で向かった隙に事は決行されたが、ロレンツォ、ジュリアーノの機転により大事は免れた、ピッティーは、ピエロに詫び、生涯協力する約束で罪は免れた。

しかしこの温和な処置が、やがて次の代に大きな反乱を生むことになる。

  

☆ピエロと芸術家

ピエロも父コジモに習い芸術家の共としてパトロン活動を続けた。

ルカ・デッラ・ロッビア1400~ 建築家 後のフィレンツェ彫刻家組合の長となる人物

ウッチャルロ(パオロ・ディ・ドーニ) 画家 動物や鳥の絵の大家

ポッライウォーロ(アントニオ・ディ・ヤコポ・ベンチ) 画家 父親が鳥屋だったことからこう呼 

 ばれた。

ボッティチェッリ(アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーペ) 

 ピエロは家族同様に面倒を見、ピエロに≪マニフィカートの聖母≫ ≪三王礼拝≫ ≪力≫を残す

ベノッツォ・ゴッツォーリ メディチ家宮殿2階礼拝堂にフレスコ画を残す