☆コジモと芸術家
ドナテッロ1386~ 彫刻家
フィレンツェ生まれ、ホモでコジモを愛する、コジモは生涯面倒を見る
・大理石像≪聖ジョルジョ≫ ・ブロンズ像≪ダヴィデ像≫
ギベルティー 彫刻家、建築家
フィリッポ・リッピ 画家
女郎買い、かっぱらい、嘘つき、飲んだくれ、早々に修道修業をやめる。マザッチョへの挑戦欲だ
けが取り柄で、サン・アンブロージュ教会の修道女のために実に美しい祭壇画を描き、コジモの目
に留まる。≪サン・ステファノ教会フレスコ画にコジモの庶子カルロの肖像描く≫
マザッチョ(トマソ・グイディ)1401~1428 画家
ブランカッチ礼拝堂のフレスコ画はミケランジェロ、ラファエッロに強い影響
フラ・アンジェリコ(ジョヴァンニ・ダ・フィエゾーレ)1387~ 画家
ムジェッロ地方のヴェッキオ生まれ、素朴で温和な気高い修道僧として生涯宗教画を描く
≪受難のキリスト≫ ≪東方博士の礼拝≫メディチ家専用庵室はコジモの依頼
1464年8月1日 コジモ死去 市政府は「祖国の父」の称号をコジモに与える
☆痛風病みのピエロ
48歳でコジモの後を受け継ぐ
銀行家としては才を発揮できず、多くの負債を抱えることになる
1448年統領、1461年ゴンファニャーレ(市政府長官)に就任
細やかな神経に生まれ持った素質も手伝い、ピエロは傑出した外交官となった、フランス王ルイ11世は大層ピエロを気に入った。
市政府は二人の息子ロレンツォとジュリアーノが豊かな才能を発揮しており、その将来を嘱望しピエロにコジモが得た特権をそのまま与えた。
この時ロレンツォは15歳、ジュリアーノは11歳になっていた。
特にロレンツォは早熟の才を発揮した。メディチ家に伝わる美貌こそ無かったが、異相とも言うべき土気色の容貌は、力強く、人を捕らえて離さない魅力があった。筋骨たくましいロレンツォは多岐にわたる十分な教育を受け、15歳になるまでに同年代の少年にはひるむような大役をこなしている。
・外交官特使としてピサでナポリ王フェランテの次男フェデリーゴと会見。
・ミラノでスフォルツァの娘イッポリートとナポリ王の長男との結婚式に父の名大で出席。
・同盟国ボローニャでは最有力市民のベンティベンティヴォーリオと会談
・ヴェネツィアでドージェ(元首)と接見
・ フェラーラでエステ家から滞在の要請を受け
・ ナポリでフェランテ王と会見
・1466年ローマにて新教皇パウルス2世の即位に際し名大で祝賀を述べる
・トルファでの明礬採掘権の交渉
・叔父のトルナブォーニローマ支店長に業務改善の会談
しかしフィレンツェでは、また権力をめぐりルカ・ピッティーがメディチ家失脚の画策を始めた。
ミラノのスフォルツァーが死に、その影響力が減少すると、ピッティー派はヴェネツィアとの関係を戻すべきだと主張しメディチ家の失策を迫った。早速密者がヴェネツィアに送られ密約が交わされた。
ピエロの通風が悪化し、カレッジに療養で向かった隙に事は決行されたが、ロレンツォ、ジュリアーノの機転により大事は免れた、ピッティーは、ピエロに詫び、生涯協力する約束で罪は免れた。
しかしこの温和な処置が、やがて次の代に大きな反乱を生むことになる。
☆ピエロと芸術家
ピエロも父コジモに習い芸術家の共としてパトロン活動を続けた。
ルカ・デッラ・ロッビア1400~ 建築家 後のフィレンツェ彫刻家組合の長となる人物
ウッチャルロ(パオロ・ディ・ドーニ) 画家 動物や鳥の絵の大家
ポッライウォーロ(アントニオ・ディ・ヤコポ・ベンチ) 画家 父親が鳥屋だったことからこう呼
ばれた。
ボッティチェッリ(アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーペ)
ピエロは家族同様に面倒を見、ピエロに≪マニフィカートの聖母≫ ≪三王礼拝≫ ≪力≫を残す
ベノッツォ・ゴッツォーリ メディチ家宮殿2階礼拝堂にフレスコ画を残す