フィレンツェ 散策 5
2009年09月12日
フィレンツェ軍がイモラで決定的な敗北を喫すると、民衆は政府に不満を募らせた、それをきっかけにメディチ家支持者が市政府の多数を占めるようになった。
新しいゴンファニャーレが市民の要求によって選出されると、アルビッツィーはもし一言でもメディチ家の帰還をほのめかすような事があれば、武力行使の用意があると圧力をかけるが、それに屈しない市政府は、1434年9月2日、アルビッツィーが用事で留守の間にメディチ家の帰還を決議してしまう。そして逆に、アルビッツィーの市議会への召喚を行うのである。
メディチ家の二の舞を避けたアルビッツィーは召喚に応じず、武力で立てこもる。
それに対し、まずヴェネツィアが圧力をかける。
同じ日、300人のヴェネツィア兵の護衛と共にコジモはフィレンツに向け出発、そしてムジェッロで野営する。
ローマからは教皇エウゲニウス4世がサンタ・マリア・ノヴェッラ教会に陣取り、アルビッツィーの調停に乗り出した。
結局アルビッツィーは教皇との調停に応じ、今後の何一つの約束も得られずに敗北をするのである。
2日後、市庁舎鐘楼の鐘が1時間鳴り響き、市民総会は招集された。
350年からなる市民による評議会が設立され、全員一致で、メディチ家の追放は即刻取り消され、正式に帰還が許された。
ヴェネチアの兵を伴ったコジモのフィレンツェ帰還は、まさにローマ時代の凱旋式の様相を帯び、偉大な皇帝が大勝利の凱旋をしているようだと記している。
称号こそ無いが、王の中の王となったのである。
そのごコジモは何年にも渡り大いに繁栄を拡大してゆくのである。
ついには、豊かな商人が公職を避けるのは無分別だとのフィレンツェの意思をついで、3度ゴンファニャーレの地位につき、市民のための改革に着手し、大きな実績を上げている。名実共にコジモはトスカーナの父となったのである。
☆ 大主教 そして建築家
権力を掌握したメディチに花を添えるものは、名誉である。
最大の功績は、ギリシャ東方教会とローマカトリック教会との合同会議をフィレンツェ開催すべく誘致したことである。
これは友人である教皇エウゲニウス4世に頼み、フェラーラからフィレンツェに開催地を変更させ実現したのである。
過去6世紀に渡り、主として教義解釈の違いから、東と西に分かれたキリスト教会の2大教会は反目を続けていた。
しかしここに来て、オスマントルコの勢力が拡大し、ヴィザンチン帝国が援助を申し出たのである。
1438年の末、ヨハネス・パライオロゴスはコンスタンティノープル総大主教とその随行主教、神学者、古典学者、通訳、官史、総勢700名を引きつれヴェネツィアからフィレンツェに入った。
激しい雨のため歓迎式は台無しだったが、翌日からサンタ・マリア・ノヴェッラ修道院に陣取り、全体会議はサンタ・クローチェ教会で行われた。
数々の苦難の末に2つの教会は合意に達するが、コンスタンティノープルに帰ったとたん合意文書は破棄されてしまう。
そして14年後、スルタンによって、ビザンチン帝国と共に東ローマ帝国は崩壊することになる。


