フィレンツェ 散策 4
2009年09月05日
メディチ家の銀行は各国にあり、コジモはフィレンツェを留守にしがちであった。
その隙に宿敵アルビッツィー家はゴンファニャーレの地位を利用し、権力の拡大を始めた。さらに領土を広げるための戦争である。ミラノとの開戦は戦力不足でだらだらと長引くだけであり、そこに持ってきて、ミラノの支援を受ける隣国ルッカとの開戦をはじめた。状況が不利になると、メディチ家が傭兵を雇い背後で力を貸していると噂を流し、民衆の不満をメディチ家に向けた。
勿論、誰も信じるものはいなかったが、旧家の権力者は、メディチ家の没落に興味を示し、同調したのである。
1432年、穏健派の貴族ピッコロが世を去ると、一気にリナルド・デッリ・アルビッツィーはメディチへの攻撃を開始する。
1433年、アルビッツィーはまず負債の免除を条件にベルナルド・ダニアーリをゴンファニャーレに選出し、偽りの不正の罪でコジモを緊急会議で裁くために召喚をしたのである。
9名の市議会員のうち7名までは買収済みであったため、コジモの罪は有罪となった。
メディチ家は直ちに軍を編成しムジェッロを飛び出し、カファッジョーロではメディチ家支持者が、小規模ながら軍を編成、傭兵隊長ニッコロ・ダ・トレンティーノは傭兵隊を編成し、ピサからラストラへ向かい、ここで軍を止め、フィレンツェにらみをきかせた。
この行動に動揺したメディチ家への不満分子の豪族と富豪たちは恐れをなし、アルビッツィーの主張する、コジモ打ち首、財産没収の極刑までは支持せず、パドヴァへの10年間の追放を決めたのである。
この時コジモは「正しく負けたのである」。
不正を主張し抵抗すれば、混沌とした状況が暗殺の機会を生むからである。
即座に身を引く決断をして、但し、主要な人物への買収は忘れなかった。
あなた方が決定したとおり、わたしはパドヴァに行こう。
あなた方が命じた場所に私は赴き、とどまることに満足すると申し上げよう。
あなた方の決定で、わたしに災難が降りかかってきたが、私はそれを恩恵とし、利益とし、財産として受け入れよう。
私の不幸が、フィレンツに平和と幸福をもたらすと私が知る限りは、どんな困難も甘んじて受けよう。
但し、一つだけお願いがある。
あなた方は、私の命を助けようとしているのだから、邪悪な市民の手にかかって命を失うような、屈辱がそなたたちに降りかからないように、配慮しなければならないはずだ。
外の広場で武器を手に立っているものたちは、私の思い通りにならないと言う点を考慮願いたい。
こうしてコジモは武装した衛兵に守られ、国境まで護され、そこで釈放された。
コジモが追放の地に向かう途中で受けた扱いは、屈辱どころか、盛大な歓迎であった。
フェラーラ候自らで向き盛大な歓迎をし、パドヴァでは市当局から名誉ある賓客として迎えられた。
パドヴァに2ヶ月滞在したコジモはヴェネツィアに向かう。ヴェネツィアではサン・ジョルジョ・マッジョーレ修道院の1室が与えられ、何不自由なく暮らしている。
メディチ家はローマとヴェネツィアの国の銀行としての地位を得ており、この両国は着々とメディチ家の復帰を準備する。
一方リナルド・デッリ・アルビッツィーはコジモの幽閉中に破産を狙ったが、彼の財産はすでにそのほとんどが他国に移された後で、没収するものは何もなく、失敗に終わった。
もとよりコジモはアルビッツィーの不穏な動きを察知し、莫大な金貨全てをフィレンツェの銀行からナポリとローマの支店に移していたのである。
これで財産はアルビッツィーの手の及ばぬものとなった。また一部の金貨の入った袋はサンミニアート・アル・モンテ修道院のベネディクト派の穏者とサン・マルコ修道院のドメニコ派の僧に預けられた。たとえ最悪支店を含む銀行業務が停止しても、資金は自由に使るように周到に準備していたのである。


