フィレンツェ 散策 6

2009年09月19日

コジモが睨んだとおり、このフィレンツェでの合同会議は一大スペクタクルで、もたらした影響は計り知れなかった。

期間中、フィレンツの町中、あごひげを生やしたコンスタンティノープルからの客人が、奇怪な帽子をかぶり、豪華な衣装を身に着け、ムーア人、あるいはモンゴル人の召使と見たこともない動物を引き連れて歩く姿は尽きる事のない興味の的であり、多くのフィレンツェの画家ジュンティーレ・ダ・ファブリアーノからペノッツォ・ゴッツォーリにいたるまで、大いなるインスピレーションを与えたのである。

又数多くのギリシャの古典学者が滞在したことで、かの偉大なヒューマニスト、プラトンの研究への関心を呼び起こした。やがてコジモはプラトン・アカデミー設立の野望を抱き、莫大な投資をし、多くの蔵書が集められた。この世界で最も優れた書籍のコレクションは高く評価され、宗教に関するものはサン・マルコ修道院に寄付され、残りはコジモの手元に置き、世界初の図書館として、望むもの全ての人に解放された。

ここにギリシャ時代の自由な発想への啓蒙が始まり人間復興気運が高まる。

いわゆる「ルネッサンス」の始まりである。

そしてこの図書館をモデルに、30年後、ヴァチカンに図書館が出来上がった。

 

☆ミラノとの講和

長いことミラノ問題に悩まされていたコジモは、確執は好ましくないと常々考えていた。環境が整った今その修復に向かう。

その動きを牽制したのがヴェネツィアとナポリである。ミラノとヴェネツィアは宿敵でありミラノがフィレンツェを牽制している間はヴェネツィアにとって安全というわけだ。

一方フランスはナポリが自国だと主張しており、フランスとミラノは同盟国ゆえ、ミラノとフィレンツェの友好関係はフランスのナポリ進出の口実を与えかねないと懸念したのである。

15世紀の初頭ヴェネツィアは類まれな海軍力により、ヴェローナ、ヴィチェンツァ、パドヴァ、ベッルーノ、フェルトレと領土を獲得し、トルコ艦隊を破ってはるかダルマシアにまで国境を広げていた。

ミラノとの戦いではこうしたヴェネツィアの力は、フィレンツェにとって多いに助けになったが、コジモはヴェネツィアの重要度よりもミラノとの関係を重視したのである。

それは次の2つの理由による。

 

1・フィレンツは交易により栄え、トルコとはきわめて良好な関係であった。ヴェネツィアとトルコの関係が悪化すれば当然友好国より、交易国との通商関係を大事にする。

2・ヴェネツィアの海運力強化は、フィレンツェの公益の妨害となりつつあった。

 

フィレンツの動きを知ると、ヴェネツィアはナポリと組んでフィレンツェを牽制し、ナポリは軍  

を動かした。

逆にナポリが軍を動かしたことにより、フィレンツ人はミラノとの講和へと傾いたのである。

ミラノとの講和条約調印の波紋

1・ヴェネツィアはドイツに働きかけて、潰しにかかる

2・ビザンチン帝国はフィレンツェ商人の特権を取り消す。

3・ナポリ、ヴェネツィアからフィレンツェ商人は追放。

・ヴェネツィアのメディチ銀行閉鎖とミラノ支店開行。

5・トルコとの通商特権取得

6・フランスとの友好強化(シャルル7世)、やがてスフォルツァー、ミラノ王とコジモは同盟を結ぶ

7・ヴェネツェとナポリはフィレンツェに宣戦布告。

こうしてイタリアは一気に緊迫し、コジモはミラノへの援助と軍事力強化に忙殺される。

その最中14535月コンスタンチノープルがオスマン帝国スルタンにより陥落の報が届き、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア、ナポリは法王の下に集結を強いられ、しばしこの緊張は終結したのである。

フィレンツェ 散策 5

2009年09月12日

フィレンツェ軍がイモラで決定的な敗北を喫すると、民衆は政府に不満を募らせた、それをきっかけにメディチ家支持者が市政府の多数を占めるようになった。

新しいゴンファニャーレが市民の要求によって選出されると、アルビッツィーはもし一言でもメディチ家の帰還をほのめかすような事があれば、武力行使の用意があると圧力をかけるが、それに屈しない市政府は、143492、アルビッツィーが用事で留守の間にメディチ家の帰還を決議してしまう。そして逆に、アルビッツィーの市議会への召喚を行うのである。

メディチ家の二の舞を避けたアルビッツィーは召喚に応じず、武力で立てこもる。

それに対し、まずヴェネツィアが圧力をかける。

同じ日、300人のヴェネツィア兵の護衛と共にコジモはフィレンツに向け出発、そしてムジェッロで野営する。

ローマからは教皇エウゲニウス4世がサンタ・マリア・ノヴェッラ教会に陣取り、アルビッツィーの調停に乗り出した。

結局アルビッツィーは教皇との調停に応じ、今後の何一つの約束も得られずに敗北をするのである。

 

2日後、市庁舎鐘楼の鐘が1時間鳴り響き、市民総会は招集された。

350年からなる市民による評議会が設立され、全員一致で、メディチ家の追放は即刻取り消され、正式に帰還が許された。

ヴェネチアの兵を伴ったコジモのフィレンツェ帰還は、まさにローマ時代の凱旋式の様相を帯び、偉大な皇帝が大勝利の凱旋をしているようだと記している。

称号こそ無いが、王の中の王となったのである。

そのごコジモは何年にも渡り大いに繁栄を拡大してゆくのである。

 

ついには、豊かな商人が公職を避けるのは無分別だとのフィレンツェの意思をついで、3度ゴンファニャーレの地位につき、市民のための改革に着手し、大きな実績を上げている。名実共にコジモはトスカーナの父となったのである。

 

☆ 大主教 そして建築家

権力を掌握したメディチに花を添えるものは、名誉である。

最大の功績は、ギリシャ東方教会とローマカトリック教会との合同会議をフィレンツェ開催すべく誘致したことである。

これは友人である教皇エウゲニウス4世に頼み、フェラーラからフィレンツェに開催地を変更させ実現したのである。

過去6世紀に渡り、主として教義解釈の違いから、東と西に分かれたキリスト教会の2大教会は反目を続けていた。

しかしここに来て、オスマントルコの勢力が拡大し、ヴィザンチン帝国が援助を申し出たのである。

1438年の末、ヨハネス・パライオロゴスはコンスタンティノープル総大主教とその随行主教、神学者、古典学者、通訳、官史、総勢700名を引きつれヴェネツィアからフィレンツェに入った。

激しい雨のため歓迎式は台無しだったが、翌日からサンタ・マリア・ノヴェッラ修道院に陣取り、全体会議はサンタ・クローチェ教会で行われた。

数々の苦難の末に2つの教会は合意に達するが、コンスタンティノープルに帰ったとたん合意文書は破棄されてしまう。

そして14年後、スルタンによって、ビザンチン帝国と共に東ローマ帝国は崩壊することになる。

フィレンツェ 散策 4

2009年09月05日

メディチ家の銀行は各国にあり、コジモはフィレンツェを留守にしがちであった。

その隙に宿敵アルビッツィー家はゴンファニャーレの地位を利用し、権力の拡大を始めた。さらに領土を広げるための戦争である。ミラノとの開戦は戦力不足でだらだらと長引くだけであり、そこに持ってきて、ミラノの支援を受ける隣国ルッカとの開戦をはじめた。状況が不利になると、メディチ家が傭兵を雇い背後で力を貸していると噂を流し、民衆の不満をメディチ家に向けた。

勿論、誰も信じるものはいなかったが、旧家の権力者は、メディチ家の没落に興味を示し、同調したのである。

1432年、穏健派の貴族ピッコロが世を去ると、一気にリナルド・デッリ・アルビッツィーはメディチへの攻撃を開始する。

1433年、アルビッツィーはまず負債の免除を条件にベルナルド・ダニアーリをゴンファニャーレに選出し、偽りの不正の罪でコジモを緊急会議で裁くために召喚をしたのである。

9名の市議会員のうち7名までは買収済みであったため、コジモの罪は有罪となった。

メディチ家は直ちに軍を編成しムジェッロを飛び出し、カファッジョーロではメディチ家支持者が、小規模ながら軍を編成、傭兵隊長ニッコロ・ダ・トレンティーノは傭兵隊を編成し、ピサからラストラへ向かい、ここで軍を止め、フィレンツェにらみをきかせた。

この行動に動揺したメディチ家への不満分子の豪族と富豪たちは恐れをなし、アルビッツィーの主張する、コジモ打ち首、財産没収の極刑までは支持せず、パドヴァへの10年間の追放を決めたのである。

この時コジモは「正しく負けたのである」。

不正を主張し抵抗すれば、混沌とした状況が暗殺の機会を生むからである。

即座に身を引く決断をして、但し、主要な人物への買収は忘れなかった。

 

  あなた方が決定したとおり、わたしはパドヴァに行こう。

あなた方が命じた場所に私は赴き、とどまることに満足すると申し上げよう。

  あなた方の決定で、わたしに災難が降りかかってきたが、私はそれを恩恵とし、利益とし、財産として受け入れよう。

  私の不幸が、フィレンツに平和と幸福をもたらすと私が知る限りは、どんな困難も甘んじて受けよう。

  但し、一つだけお願いがある。

  あなた方は、私の命を助けようとしているのだから、邪悪な市民の手にかかって命を失うような、屈辱がそなたたちに降りかからないように、配慮しなければならないはずだ。

  外の広場で武器を手に立っているものたちは、私の思い通りにならないと言う点を考慮願いたい。

 

こうしてコジモは武装した衛兵に守られ、国境まで護され、そこで釈放された。

コジモが追放の地に向かう途中で受けた扱いは、屈辱どころか、盛大な歓迎であった

フェラーラ候自らで向き盛大な歓迎をし、パドヴァでは市当局から名誉ある賓客として迎えられた。

パドヴァに2ヶ月滞在したコジモはヴェネツィアに向かう。ヴェネツィアではサン・ジョルジョ・マッジョーレ修道院の1室が与えられ、何不自由なく暮らしている。

メディチ家はローマとヴェネツィアの国の銀行としての地位を得ており、この両国は着々とメディチ家の復帰を準備する。

一方リナルド・デッリ・アルビッツィーはコジモの幽閉中に破産を狙ったが、彼の財産はすでにそのほとんどが他国に移された後で、没収するものは何もなく、失敗に終わった。

 

もとよりコジモはアルビッツィーの不穏な動きを察知し、莫大な金貨全てをフィレンツェの銀行からナポリとローマの支店に移していたのである。

これで財産はアルビッツィーの手の及ばぬものとなった。また一部の金貨の入った袋はサンミニアート・アル・モンテ修道院のベネディクト派の穏者とサン・マルコ修道院のドメニコ派の僧に預けられた。たとえ最悪支店を含む銀行業務が停止しても、資金は自由に使るように周到に準備していたのである。