フィレンツェ 散策 3

2009年08月27日

ジョヴァンニ・ディ・ヴィッチ・ディ・メディチの没後、コジモ・ディ・メディチがさらにメディチ家の繁栄とフィレンツェの繁栄を築いてゆく。

商人の町として栄えたフィレンツェはギルドと呼ばれる各業種別の商業組合があり、組合は街の整備に資金を提供し、病院や教会や公共施設を建築していきました。この動きが後に、ルネサンスのパトロンへと発展してゆきます。

コジモは1389927日に生まれる。

サンタ・マリア・デッリ・アンジェリのカマードリ会修道院附属の学校で教育を受けた彼は、ドイツ語、フランス語、ラテン語、ヘブライ語、アラビア語、ギリシャ語の手ほどきを受ける。また当時の代表的な学者ロベルト・デ・ロッシの講義に出席しこの進歩的学者の指導の下、古典的教養と古典的理念への深い尊敬を植えつけられました。

教皇ピウス2世は、フィレンツェ人に対し低い評価で「高貴になれない商人、貧欲な民衆」と表現したものの、

コジモに対しては「商人にしては珍しく学問に通じた男」と評したほど、コジモには一目置いていた様子が伺える。

コジモも父ジョヴァンニの教えどおり、最初は政治から遠ざかり、銀行の拡大に没頭

しました。

そのジョヴァンニのコジモへの教えとは

  助言を与えると思われない様にせよ。しかし眼は慎重に未来の変化に向けよ。

  市庁舎に出かけるときは用心深くせよ。召喚された時は、命じられたようにせよ。

  多数の支持票を得ても、決して得意な様子を見せるな。

  訴コウと政治的な論争は避けよ。

  常に公衆の目を避けよ。

しかしコジモは、ジョヴァンニよりもはるかに野心家であった。

20代の初めにコンテッシナ・ディ・バルディと結婚し3女2男をもうける。

メディチ家がこれだけの権力を持ちながらなお、陰謀と策略によって全てを失う危険をはらんでいたのです。

われわれ日本人には理解できない理念がそこに存在しました。

共和制という厄介な政治理念。

「民衆に選出され、民衆の合意を得て決議される」民意が全てを動かす。

正しいことも、正しくないことも、紳士的だろうが、暴動だろうが、民衆が動けばきまる。

正しく民衆を動かせば、信頼の基栄光は続くが、

不正に動かせば、手痛い逆襲が待っているのが常でした。

この動乱の時代に生きることと、権力を維持することの難しさをコジモは身をもって体験することになるのです。

フィレンツェ 散策 2

2009年08月19日

メディチ家の繁栄はイコール、フィレンツェの繁栄と言える。最盛期にはフィレンツェの通貨フローリンは全ヨーロッパで最も信用の高い通貨であり、メディチ家が稼ぎ出した年間360万フローリンは、当時のナポリの国家予算に匹敵したと歴史家は記録している。

 

ゴンファニャーレとなったジョヴァンニはしかし、数ヶ月で身を引き、その後は静かに精力的に事業に勤め、当時の勢力者アルヴィッツィー家が市政府を牛耳るに任せ、常に穏やかに反対以上の立場をとらなかった。明瞭な敵対には常に過酷な反撃が控えていたからである。ライバルは拘束され、追放、財産没収そして死刑があたりまえの時代の知恵であった。

そんな状況でも、フィレンツは豊かに確実にその領土を広げていった。

ピストイア、ヴォルテッラに続き、1351年ナポリ女王からプラートを支配下に入れた。

アレッツォに続き、1406年ピサとポルト・ピサーノを手に入れ海への通路を確保。1412年にはジェノヴァからリヴォルノを買い取り、港の確保でガレー船を保有し貿易業を開始する。

このことがフィレンツェ共和国の飛躍的な富雄の増大をもたらした。

海外からはイギリス、フランドル地方、またトスカーナの丘陵地帯から膨大な量の毛織物が流れ込み、仕上げ、染色され、再び輸出され交易は長く繁栄をもたらした。

ジョヴァンニはフィレンツの2つの毛織物工場の所有者であったが彼の関心は銀行にあった。市の銀行業が1252年に美しい金貨を発行した。この金貨は表に市の象徴である百合が、裏にはラテン語でフロオレンティアが刻印されており、54ゲレ(0.0648g)の純金を含み流通価値の増大と共に国際的信用を高めた。

これが有名なフィオリーノ金貨で『フロリン』と呼ばれ、急速に信用を獲得しヨーロッパの流通貨幣となった。1422年には2百万フロリン金貨が流通し、ポンテ・ヴェッキオ周辺には72の銀行家と手形仲介業者が営業していた。

この業者の中で、最も繁栄し、最も急速に業務を拡大したのがジョヴァンニ・ディ・ヴィッチ・ディ・メディチだった。すでにローマに支店を持っていたが、ヴェネチア、ジェノヴァ、ナポリ、ガエタに支店を拡大し、さらにジェノヴァ、ローマに第2支店、ブルージュ、ロンドンと取次店を確保していった。

ジョヴァンニの成功は毛織物取引の繁栄によるだけではなく、ローマ教皇との親交にもよっていた。

教皇ヨハネス23世への多額の献金によりジョヴァンニは教皇庁財務局との例外的に有利な関係を享受するようになったのである。

フィレンツェ 散策 1

2009年08月14日

フィレンツェを有するトスカーナを建国したエトルリア人の最古の居住後がエルバ島で発見された、推定紀元前9世紀とされる。

紀元前395年に古代ローマ軍はこの地に攻め入り、紀元前205年にトスカーナ全域はローマの支配下となった。

そしてカエサル=ジュリアス・シーザーによって発案された法案により、「5年以上勤めた退役軍人」と「3人の子を持つ無産者」の為にヨーロッパの各地にローマ殖民都市を築く計画の一つとして選ばれたこの街を「花の神の舞い降りる地=繁栄する都市」の意味を持つラテン語「フィオレンティーナ」と呼んだ。

 

中世に入り一時神聖ローマ帝国が支配したが、次第に中小貴族や商人からなる支配体制が発展し自治都市となってゆく。

近郊フィエゾレを獲得しフィレンツェはアルノ川がもたらす肥沃な平野全域を支配下に治めるべく動き出す。

遠隔地との交易に加え、毛織物業を中心とする製造業と金融業で莫大な富を蓄積しフィレンツェ共和国を設立して首都となり、人口10万人の都市に成長してゆく。

その14世紀には毛織物組合(ギルド)は3万人の労働者を抱え200の店舗を所有していたという。

金融業の中心にいたのがメディチ家である。

商人と銀行家は市政の指導的立場に立ち、ゴンファニャーレ=市政府長官として君臨してゆくことになるのである。

メディチ家が最初のゴンファニャーレを輩出したのは1296年アルディンゴ・ディ・メディチであり、5代目1412年ジョヴァンニ・ディ・ヴィッチ・ディ・メディチがゴンファニャーレに選出されると、実に控えめに敵を作らずに力を蓄え、やがてメディチ家を不動の地位に押し上げてゆく。

幻のヴェネツィア

2009年08月06日

「ここから先は通行禁止だ、道を変えろ。」

「何があった?」

「火事だ」

「どこで?」

「エノテーカ ピンキオーリだ」

「エノテーカ!!」

ふり返る運転手を制して、うなずいた。ここから歩けば2分、タクシーを降りて走った。すでに悲惨な姿を想像し、一瞬目の前が暗くなった。ギベリーナ通りは封鎖され、2台の消防車がある。

煙は見当たらない、焦げた強烈な臭いが鼻を突きはしたものの、よく見ると玄関や建物は損傷がない、しかし、ホースが地下に伸びている。

まさか、ワインセラーが?

「エノテーカの者だ」何度かそう叫び、建物に入った。

事務所で、ジョルジョとアニー夫人が盛んに電話をしている。

取り次ぐ島もなく、トンベリに聞くと、明け方の3時頃、誰かがワインセラーにガソリンらしき物を投げいれ火をつけたらしい。近所の通報で消防が出動し、オーナーであるジョルジョに電話が入った。ジョルジョはアニー夫人に全従業員に集合命令を頼み駆けつけたと言う。

ジョルジョは消防士の静止を振るきり、何度も地下への侵入を試みたと言う。

「お前たちでは解らない! 俺だけが知っている」

何度も何度もそう言って、消防士と掛け合った。

 

火はギベリーナ通りの真後ろの細い路地に面する、地下の空気取りの鉄格子から投げ入れられ、ちょうどイタリアワインの年代物の棚と、類稀なコニャックやアルマニャックの周辺が打撃を受けた。

幸いなことにフランスやイタリアを代表する特級品種はちょうどセラーの反対側、火の手から一番遠いところに貯蔵されていた為、熱の被害は全くなかった。

しかしセラーの1/3に当たる1万本は破裂、3万本はほぼ使用不可能と思われた。

消防署から地下への潜入を許されたのは午後2時を回っていた。

まずジョルジョの指示に従い、ジャンニ、トンベリ、アントニオが被害頻度A,B,C,Dを判別してゆく。

被害を受けないDはそのままに、まずCの洗浄から始まった。

Aは破棄、Bは50%可能性あり、Cは質の変化はないがラベルが煙で黒変している。

水で丁寧にラベルに注意しながら延々と墨を落とす。

「ハイ、サカマ、今日はヴェネツィアじゃないのか?」

カルロ・クラコが聞いてきた。

今ではミラノに自分の店を構え新しい料理に挑戦する新進気鋭の若きシェフである。

フランスでの修行が終わり、マルケージからエノテーカにやって来たのは私がまだフィレンツェで働いていた1992年の1月だったと思う。

「カルロ、何があったんだ、何か知ってるのか?」

「よくは解らない、でもジョルジョには心当たりがあるらしい」

「誰なんだ?」

「前任のシェフと言う噂だが、根拠はない」

「前任のシェフと言えば、アントニオか? 彼は今何をしている?」

「色々あったらしく、お父さんが昨年急死して、精神的にダメージが大きくこの業界を去って今はタクシーの運転手さ」

「ええっ!そりゃ気の毒だな、でもまさか!」

「誰にもわからん話だ」

 

何本洗ったのだろうか、結局その後4日間毎日セラーでワインのボトル洗浄に明け暮れ日本に帰国した。

とんだヴェネツィア会議となったものだが、その4日間は、毎日ワインのテースティングに明け暮れ、夕食時、ジョルジョは品質確認の為、被害はないと判断したフランスヴィンテージワインも開けられ、一大ワインテースティングイヴェントと化したのであった。