食の行方

2009年05月01日

多くの偉大な料理人たちは想像力を駆使し、自ら料理の可能性の限界に挑んでいます。その挑戦は、調理法の開発から、1皿に表現する盛り付けのアートまで様々に感性を披露しています。

40席のレストランの厨房に60名もの調理人が一皿の完成に神経を研ぎ澄ます技はしかし、料理を作るには行き過ぎたようだが。それを許す時代もあれば、残念ながら許さぬ時代もあるだろう。

一組だけ、心を込めて料理を作る、それならばどの時代でも許されるかもしれないのだが。

この料理の行方はいったいどこへ行くのだろうか?

フェラン・アドリエは様々な諸条件をクリアし、どこまで開発を維持するのだろか?

実に興味を持って見守りたいと思う一人です。

さて、このような新しい料理が吹き荒れる中で、比較的穏やかに受け止めたのはイタリア料理ではないだろうか? 実は当オーナーのジョルジョ氏はフェラン氏の料理を高く評価する一人で、毎年開発される料理のテーマに合わせ訪れているが、自らのレシピに繁栄させることはない。

どんな時代でも、やはりアモーレ、マンジャーレ、カンターレの精神は大いに食べて愛を語り合うのだろう。ジャーナリストや一部の上流階級が時代を先取りしても、イタリアの庶民は一向に動じない。

自分たちの楽しみ方は自分たちで決めるらしい。

行き過ぎた表現を好まず、過度に飾りつけることもなく、伝統の延長線上から今の時代を表現する。

一見、今の流行から乖離するかのような道程だが、実はわがオーナーはやがて二つは一つになると確信している。長い歴史を見てきた彼らの予見なのか?それとも自信なのだろうか?

今のところ、その答えは見出せない。

少なくとも、エノテーカ ピンキオーリの料理は忠実に素材の持ち味とそれらを最大に生かす調理方法で新しさを表現している。

どの時代に、どの国の料理人が最先端を走るのかは結果が明らかだが、誰もがその料理に向かうわけではない。イタリア料理が伝統を重んじその精神を守ることに、誰もノーとは言えないのだから。

嗜好は限りなく増えて、やがて自らの裁量の範囲で決めてゆくのだろう。