エエノテーカ ピンキオーリ誕生エピソード32
2009年03月15日
トマトのヨーロパ上陸
スペイン、イザベラ女王の支援を受けたクリストファー・コロンブスは、1492年8月3日東へと航路を取りグアナハニ島(現在のバハマ諸島の一つタックスヘブン島)に到着し、サン・サルバドル(聖なる救世主)と名づける。友好的な島民は大歓迎で一行を向かえ、多くの献上品を送った。それらはトウモロコシ、ポテト、サツマイモ、豆、カボチャ、落花生、唐辛子、サトウキビ、椰子種、パパイヤ、パイナップル、アガヴェ(七面鳥)その他の種(カカオ、トマト他)。コロンブスの目的は金を手に入れ国に献上することが最大の目的だった(マルコポーロの伝えた黄金の島ジパングを目指していた)。そのためその後のヨーロッパの豊かな食文化を支えることになったトマト、ポテト、カカオの貴重さには気づかなかった。しかも原種のトマトはひっそりと野に捨てられてしまった。
当時のヨーロッパはルターによる反宗教運動が盛んで厳しい戒律で民衆を束縛し自由を奪うカソリックに対し、人間らしい生き方を主張するプロテスタントの考えが台頭し両者は激しく対立していた。昔から茄子科の毒性植物にマンドラゴラがある。麻酔性と毒性で人を狂気に導くとされ「愛の果実」「極楽の果実」と呼ばれていた。こんな中にトマトはやってきて、まるでマンドラゴラと同じ実をつけたから司祭者たちは直ちにこの実を食べるのを禁じた。正に名実共に「禁断の実」となったのである。このトマトはスペインからスペインブルボン家の治めるナポリへと追いやられることとなった。
その後1519年スペイン艦隊を率いるヘルナンデス・コルテスはメキシコに上陸しコロンブスから遅れること30年、アステカ農民が畑で栽培するトマトを持ち帰る。すでに品種改良され野生種とは違い甘く食用に改良されていた。スペインはこの南アメリカの大地に布教を始め、スペインの属国化を進めた。その一人ベルナルディーノ神父は冷静にアステカ文明の研究を始めた。氏の著書「ヌエバ・エスパニョール」の中で繰り返しスペインが滅ぼしたアステカ文明が以下に豊かだったかと称賛したため、フェリペ二世(1527~1598)の怒りを買い発行禁止となる。この著書にはまた、トマトのレシピが書かれており、トマトを使ったさまざまなソースを紹介しているが発禁でトマトのヨーロッパでの普及は大幅に遅れる運命となった。再び同著書が発行されたのは2世紀半の時を経てからであるから、まさしくトマトと著書は運命と共にしたのである。こうしてベルナルディーノ神父の先見は文明の弾圧によって封印されてしまったのです。
イタリアでのトマトの道のり
トマトは16世紀にスペイン国王の支配下にあったナポリ王国に上陸した。当時のナポリはヨーロッパで最も繁栄した豊かで最新の文化を誇る一流都市の一つで、モダンな都市に多くの文人も訪れている。かのゲーテ(1749~1832)も長く滞在し多くの詩を残しているが時代的にはトマトのスパゲッティーには出会っていない。ゲーテのイタリア旅行(1786~1788)、もし出会っていたならどの様にコメントしたのだろうか。
トマトは王宮や海岸沿いの貴族の豪邸の庭で観賞用の観葉植物として楽しまれていた。しかしあまりに見事に美味しそうに実をつけるトマトは黄金のような実をつけることから「ポモ・ドーロ」黄金のりんごと呼ばれた。ひそかに庭師は自分の家に持ち帰り、食するのであったがあまりの不味さに改良を試み、やっと200年後に美味しいトマトが完成する。
その間ただ黙って見ていたわけではない。
昔からイタリアには「揚げさえすればレンガでも食える」という諺がある。待ちきれなかったナポリ人は忠実にこの言い伝えに従い、まずトマトを揚げてみたのだった。
1585年にローまで刊行されたカストーレ・ドゥランテの「新しい香草」の中で「トマトをオリーブオイルで揚げて黒コショーして食べる」とその食べ方について触れている。しかし著者は続けて「しかし、トマトは体に悪い、その上いくら食べても満腹にならない」とも書いている。同じ年、イタリア人作家ピエトロ・アントニオ・ミキエルも著書の中で「トマトを輪切りにしてから揚げる。しかし食後感は胃もたれし最悪」と書いている。どうやら当時トマトは、不味い物の代名詞だったようだ。
それにしても、もったいぶった名前からは想像できないほど不味いものだったことになる。


