2009年03月27日

62年型のマスタングは赤いボディーにルーフは白く塗られていた。左フロントに少々のへこみ傷はあるが、大事にしているのだろう?

良く手入れされている。

シティーバンクの手前200メートルの路上に駐車し回転ドアから中に入り、整理番号を確認しサービスのコーヒーを口に運ぶ。男は10分ほど滞在し、番号を確かめ、腕時計を確認し渋い顔で用事を済ませずに店を後にする。

モニターには間違いなく写っていることだろう。

ここに来るのはおそらく2週間後。

こうして幾つの銀行を回っただろうか、一番目に付かない所に例の物があるのは、シティーバンクだったが、中でもセンチュリーシティーの支店が最も条件がよいように思う。だが客層が良すぎて、ラフな男のいでたちはいかにも人の気を引き目立ちすぎた。

その点サンタモニカは最高である。水着の男女が窓口で商談し合う光景は少し異様にも思えるが、心置きなく男は目的が達成できる。

男とは私であり、その目的とは「銀行の無料サービスコーヒー」のことである。

 

1ヶ月前にアメリカに渡り、700ドルで買ったムスタングで街の探索をするのが気に入っている。サンタモニカブルーバードは真っ直ぐと海に向かう、フリーウェイを使わずに行くと道は大きくアップダウンしながら青い海に向かう。夜8時頃海に向かって車を走らせれば、夕日が道の真ん中に沈んでゆく。なんとも心地良い、海に着く頃、夕陽は最大限に大きくなり海原に沈んでゆくのを一時眺めながらビールを口にはこぶ。ゆっくりと時の流れが見える1日の終わりは、賑やかな夜の始まりの前の静粛なのだろう。

こうして昼のコーヒーと夕暮れのビールを何度楽しんだのだろうか。ただ銀行のコーヒーは不味い。時間が経てば焼けていて、苦味だけが胃を刺す。お陰で3ヵ月後、一切コーヒーを受け付けなくなってしまった。以来1991年にイタリアに渡るまで、コーヒーを飲んだことがない。飲めば胃が切りきり痛むから避けていた。

エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-34-

2009年03月20日

1839年以後トマトのスパゲッティーがナポリで大流行し、時のナポリ王フェルデナンド2世がやがてそのスパゲッティーを口にするのは時間の問題であった。いくら庶民の食べ物と言え、このスパゲッティーはナポリを救う救世主として伝わり1品の料理は英雄視されたからである。だが悲しい事に、このパスタを生み出した主婦のその後はあまり文献に出てこない。トマトのソースも、スパゲッティーもすでに存在しており、この2つが合わさったのは時の仕業と思ったのかもしれない、英雄は人にではなく、スパゲッティーそのものに向けられたのである。それよりも法王の命に背きながらもトマトの品種改良を志した農民に賞賛の目が向いたのです。

「民は見ればパスタを、何故かくも美味そうに食しておる?」

「閣下、あれが噂のトマトのスパゲッティーなる代物でございます、それは誠に美味で、これに勝るものはないと申しているとか。」

「スパゲッティーがそれほど美味いと?聞き捨てならぬ、では余も食してみよう。今夜の食卓に出させよ。」

このような会話があったかは定かでないが、こうして庶民の食べ物であったパスタは宮廷へと献上されました。驚くことに宮廷内でもパスタは大好評で迎えられたのです。そしてフェルデナンドは宮中晩餐会で各国大使や枢機卿を迎え、ナポリ名物の「スパゲッティー アル ポモドーロ」を披露する計画まで立ててしまう。がしかし、政を司る武官「ジェナロ スパダッツィーニ」は頭を抱えることになります。

「閣下、いくらナポリ名物披露と言いましても、大使方々に手で食べさせるわけには参りません」

「ならば、方法を考えよ、それがそちの役目であろう!」

このように言い渡されたジェナロは、3日3晩考え抜いた末に、肉を切る為に使用している歯の長いフォークを改良することを思いついた。

まず歯先を短くする。

歯の間隔はスパゲッティーが挟まる間隔に改良。

まずまずの出来であるが、さらに4本歯にしたところ、食べやすさが向上。

こうして、現在皆様が使用しているフォークが誕生した。

ジェナロはすぐにナポリ王に報告し、すぐさま晩餐会が開催された。

こうしてフェルデナンドは自らそのフォークの使い方を手ほどきしながら、クルクルと巻き上げながらスパゲッティーを食べ、宮廷料理のコースにパスタのコースが加わる事となったのです。

それ以後のパスタの開発はすさまじく、各地で特産パスタの開発がおこり、パスタはイタリア料理の代名詞となったのです。

エエノテーカ ピンキオーリ誕生エピソード32

2009年03月15日

トマトのヨーロパ上陸

スペイン、イザベラ女王の支援を受けたクリストファー・コロンブスは、149283日東へと航路を取りグアナハニ島(現在のバハマ諸島の一つタックスヘブン島)に到着し、サン・サルバドル(聖なる救世主)と名づける。友好的な島民は大歓迎で一行を向かえ、多くの献上品を送った。それらはトウモロコシ、ポテト、サツマイモ、豆、カボチャ、落花生、唐辛子、サトウキビ、椰子種、パパイヤ、パイナップル、アガヴェ(七面鳥)その他の種(カカオ、トマト他)。コロンブスの目的は金を手に入れ国に献上することが最大の目的だった(マルコポーロの伝えた黄金の島ジパングを目指していた)。そのためその後のヨーロッパの豊かな食文化を支えることになったトマト、ポテト、カカオの貴重さには気づかなかった。しかも原種のトマトはひっそりと野に捨てられてしまった。

当時のヨーロッパはルターによる反宗教運動が盛んで厳しい戒律で民衆を束縛し自由を奪うカソリックに対し、人間らしい生き方を主張するプロテスタントの考えが台頭し両者は激しく対立していた。昔から茄子科の毒性植物にマンドラゴラがある。麻酔性と毒性で人を狂気に導くとされ「愛の果実」「極楽の果実」と呼ばれていた。こんな中にトマトはやってきて、まるでマンドラゴラと同じ実をつけたから司祭者たちは直ちにこの実を食べるのを禁じた。正に名実共に「禁断の実」となったのである。このトマトはスペインからスペインブルボン家の治めるナポリへと追いやられることとなった。

その後1519年スペイン艦隊を率いるヘルナンデス・コルテスはメキシコに上陸しコロンブスから遅れること30年、アステカ農民が畑で栽培するトマトを持ち帰る。すでに品種改良され野生種とは違い甘く食用に改良されていた。スペインはこの南アメリカの大地に布教を始め、スペインの属国化を進めた。その一人ベルナルディーノ神父は冷静にアステカ文明の研究を始めた。氏の著書「ヌエバ・エスパニョール」の中で繰り返しスペインが滅ぼしたアステカ文明が以下に豊かだったかと称賛したため、フェリペ二世(15271598)の怒りを買い発行禁止となる。この著書にはまた、トマトのレシピが書かれており、トマトを使ったさまざまなソースを紹介しているが発禁でトマトのヨーロッパでの普及は大幅に遅れる運命となった。再び同著書が発行されたのは2世紀半の時を経てからであるから、まさしくトマトと著書は運命と共にしたのである。こうしてベルナルディーノ神父の先見は文明の弾圧によって封印されてしまったのです。

イタリアでのトマトの道のり

トマトは16世紀にスペイン国王の支配下にあったナポリ王国に上陸した。当時のナポリはヨーロッパで最も繁栄した豊かで最新の文化を誇る一流都市の一つで、モダンな都市に多くの文人も訪れている。かのゲーテ(17491832)も長く滞在し多くの詩を残しているが時代的にはトマトのスパゲッティーには出会っていない。ゲーテのイタリア旅行(17861788)、もし出会っていたならどの様にコメントしたのだろうか。

トマトは王宮や海岸沿いの貴族の豪邸の庭で観賞用の観葉植物として楽しまれていた。しかしあまりに見事に美味しそうに実をつけるトマトは黄金のような実をつけることから「ポモ・ドーロ」黄金のりんごと呼ばれた。ひそかに庭師は自分の家に持ち帰り、食するのであったがあまりの不味さに改良を試み、やっと200年後に美味しいトマトが完成する。

その間ただ黙って見ていたわけではない。

昔からイタリアには「揚げさえすればレンガでも食える」という諺がある。待ちきれなかったナポリ人は忠実にこの言い伝えに従い、まずトマトを揚げてみたのだった。

1585年にローまで刊行されたカストーレ・ドゥランテの「新しい香草」の中で「トマトをオリーブオイルで揚げて黒コショーして食べる」とその食べ方について触れている。しかし著者は続けて「しかし、トマトは体に悪い、その上いくら食べても満腹にならない」とも書いている。同じ年、イタリア人作家ピエトロ・アントニオ・ミキエルも著書の中で「トマトを輪切りにしてから揚げる。しかし食後感は胃もたれし最悪」と書いている。どうやら当時トマトは、不味い物の代名詞だったようだ。

それにしても、もったいぶった名前からは想像できないほど不味いものだったことになる。

エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-31-

2009年03月06日

ヨーロッパの貴族社会は国を超えて血縁を広げ勢力分布を拡大してきた、ローマ史依頼ヨーロッパの勢力の構図である。2000年前に始まるローマの食文化はしたがってヨーロッパの食文化の始まりと言って過言ではない。一例を挙げればラテン語「アキピウスの料理」はフランスでは「アピシュウスの料理」として今に伝える、いわばフランス料理の元祖とあがめる。

したがって16世紀にカテリーナがフランスに伝えた料理は、近代フランス料理の始まりではないとするのが見解のようだ。だが事実としてメディチ家より鴨のオレンジソース、アイスクリームは伝わり、ナイフとフォークの文化が始まった。オーブンが持ってゆかれ、ガラス工芸はバカラを生み出し、陶器はリモージュを生み出したのです。

 

ではイタリアを代表する「パスタ」はなぜフランスに伝わらなかったのだろうか?

 

そもそもパスタの歴史は、ローマ時代にパンが焼かれる前から存在し、ローマの庶民を支えてきた。

ギリシャの民族が、増えすぎた人口を移民させる為に開拓した新しい都市「ネオポリス」はナポリとして栄、ここを拠点に地中海中に海運は発展して行った、その船乗りの食料として開発されたパスタはナポリの代表的産物であった。

まずデュラル小麦が生産に適していた事、そしてヴェスビオ火山から吹き降ろす乾燥した空気がパスタの製造の好条件となったことだろう。しかしパスタはあくまでも主食の一種で、茹でてオリーブ油をかけて食べる。日本の「ご飯の」ようにパスタの存在は主食であり、現在のような料理の位置づけではなかったのである。しかしナポリ発のパスタは海運の発達と共にイタリア各地の港から内陸へと浸透して行きました。ローマより北の地域ではデュラル小麦が生産できないため、手打ちパスタが開発されてゆきました。時々パスタもご馳走に変わるときがありました、貧しい一家が飼っていた鳥を煮込んだ料理が夕食に出された翌日、わずかな肉片と野菜の中にパスタを入れて、きれいにたいらげるのであるが、けっこうこれは皆の人気商品であった、そうは言っても肝心の鶏がめったに食べられない。日本で言えば、鍋物の後の雑炊に似ているが、それを料理というにははばかりました。

パスタが料理として誕生するには、トマトの出現まで待たなければならなかったのでした。

えっ!ではトマトはイタリアになかったのですか?

そうです。トマトの原産は南アメリカ、カリブの島々や、チリが原産でした。

金を探しに言ったコロンブスが「大地の黄金 ポモドーロ」を持ち帰るわけですが、ヨーロッパに着いたトマトは悪魔の食べ物として、法王庁から食用禁止の迫害を受けることになります。

そのことが、ヨーロッパのトマトの普及に空白の200年を生むことになるのです。