エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-28-

2009年02月12日

1992年2月5日、私のイタリア研修は終わりいよいよ帰国して3月18日の開店に備える時が来ました。本当にあっという間に月日が過ぎて私の体重は7キロ減となり、かなり見栄えが良くなった(大満足)。

イタリア料理は実に奥深い、たどればローマ時代に遡る。

マルクス・ガイウス・アピキウス

カエサル以後、クラウディウス家の皇帝時代の豊かな時代に生き、貴族院出身だが政治に興味を持たない趣味人,文化人のこの人物が様々な素材の組み合わせから膨大なレシピを開発し偉大な料理本を出版しのです。

イタリアを統一し、カルタゴ(現北部アフリカ)、スペイン、ガリア(現南部フランス)を属国に収めるローマ帝国はその属国からオリーブ油、穀物、小麦粉、香辛料(特にコショー)、ワイン、陶器、ランプ、ガラス製品、金,銀製品、絹織物、野生動物、特筆すべきはピレネーからの雪が高級官僚に送られ豊かな食糧や生活用品が生活様式を変え,食文化を一気に引き上げたことだろう。

人々は夜明けと供に働き、食事は1日2食、夕食は7時に始まり夜中まで続く。延々と飲み食べる。

その食事方法はコの字型の3方の台(トリクリニウム)に3人が寝転ぶように厳格に決めており、一人だけ招待客の同伴が許されていた。基本的に3名ずつの9名を1ユニットとしテーブル数が決められる。3卓をコの字形にセットし、開いた方からワインや料理サービスされる。

寝転んで食べる、これが高尚なマナーであり、卓にはナイフ、スプーン、ひしゃく、爪楊枝がセッティングされる。飲み物はワインで食前酒は蜂蜜やヨモギエキスなどで割られる、食事中は水かお湯で割られ、どの地方のワインをどの程度に割るかが飲み物担当のテクニックでソムリエはここから始まる。食事の内容はと言えば、これがビックリである。レシピだけ見れば十分に現在でも通用するのである。一端を紹介すると、「トリフのこんがり焼き」形のそろったトリフを5つ串に刺し、バターでゆっくりと焼き上げる。今では勇気のいる料理であるが、味はともかく凄い料理である。「フォアグラのソテー」十分に肥沃した鴨のフォアグラをソテーし、イチジクのソテーと共に食す。鴨をイスに縛りつけ、乾燥イチジク(当時は砂糖の代わりに使用)をたらふく食べさせて2000年前のローマでこの高級食材が開発されたとは知るに値する事実である。ピレネーから運ばれた雪は地下の室に安置され、冷蔵庫となり夏でも美味しい食材が保存され、その雪はまた生牡蠣の下に敷かれて料理を演出したのである。シーザーは8月24日に要人を招いた晩餐会のメニューで紹介している。ローマの夏に雪が食卓にでる、底知れない権力の誇示にはこの上ない贅沢品であろう。

その後キリスト教による抑圧された時代は、これと言って料理の開発記録はないが、ルネサンスに入りその中心地フィレンツのメディチ家で、海外貿易から入る様々な調理器具や食器ガラス工芸と共に新しい香料や食材が新たな料理の開発へと進ませ、やがてオーブンの開発にたどり着くと、調理の幅は拡大され、より美味しい物が短時間で出来るようになり、同時に新しいレシピが次々と開発されてゆく。

この時、「鴨のオレンジソース煮」がメディチ家で誕生する。それはカテリーナのレシピであり、フランス王子アンリ2世に嫁ぐことでフランスにもたらされたのは、すでにご存知のことであろう。その父フランス王フランソワ1世はまた、フランスにルネサンスを根付かせようとレオナルド・ダ・ヴィンチを屋敷に住ませその深い知識に耳を傾けた。ひっそりとダヴィンチが息を引き取ると。そこに残されたのは最後まで手放すことのなかった1枚の絵「モナリザの微笑である」

どこからイタリア料理を語ればよいのか、途方もない資料の山である。そんなイタリア料理を引っさげて

いよいよ銀座にオープンする。・・・・1982年3月18日・・・・開店