エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-24-
2009年01月17日
次の週末と月曜日は学校を休みアンティーク屋で働くことになった。内装用に注文した薬屋の33メートルのカウンター窓口を廊下のサイズに合わせカットをしなければならない。当時はメールと言う物がなくファックスがせいぜいだが、建築用の図面となるとファックスには入らず鮮明さにかけるのも問題であった、故に郵送されてきて、言葉の通じないイタリア語で何とか指示をしてほしいとのことであったのだ。
建築家の伊藤氏はイタリアで設計を学んだ為、勿論イタリア語は出来る。その依頼書は手紙で綴られており、私はBenvenuto Mauroのマウロ氏と土、日、月の3日間アトリエで作業することになったのである。土曜の朝エノテーカ ピンキオーリの門の前で8:00に待ち合わせた。当然到着したのはボロのトラックであった。車に揺られフィレンツェから約20分アウトストラーダを通り高速を降りてからさらに20分、幾つかの集落を過ぎた村はずれの工房に着いた。すでに職人が2人いて、注文した薬屋のカウンターは並べられていた。送られてきた図面を基に正確にチョークで確認されてゆく、9つのパネルにカットするのだが、幸いなことに何とか細かく細工されたアンティークのデザインを壊すことなくカット出来る事がわかった。
後は一部が剥げ落ちているところの修復だけが時間のかかる作業となった。しかし慣れたものである、同じ材質の木片を手馴れた作業で彫りこんでゆき、2時間ほどで窓枠の一方が完成してゆく、塗装の色合わせも見事で、私には全く新しい物と本物が見分けられないほどであった。そこで私は何をしたかと言うと
サイズに合わせて切り分けられたパネルを台の上に載せる手伝いであった。そう、力仕事ならイタリア人にだって負けはしない。埃だらけの工房で邪魔にならずに結構仕事が回ってきた、そこのバケツを取ってくれとか、水を汲んでくれとか、勿論大きな声で、イタリア語でいうのだが、ひとつの作業を一緒にやっているとなんとなく必要な物がわかるから不思議である。心配していた「何がなんだかわからない状態」にはならず、安堵したのを覚えている。
一番楽しかったのは勿論昼食である。これが豪勢であった。
まず一人が蒔き(中にはアンティークの木材も入っている)を炊く、20分ほどものすごい勢いで燃やしやがてオキを広げる。4隅に木片を置いて網を置く、もう一人は2キロほどもある大きな骨付きステーキを粗塩だけで焼き始める。最後の一人は向こうの丘に出かける、やがて美味しそうなトマトやトレビス、レタス、レモンそしてイチジクを山のように持ってきた。そして何と、作業中のアンティークのパネルが裏返されシーツのようなクロスが敷かれた。私のすることはそこにイスを置いて、事務所の台所にある皿、フォーク、ナイフやグラスを並べることである。野菜や果物はさっと洗われ大きなボールにぶち込まれた。
ミネラルウォーターとワインが置かれると、すばらしい食卓になった。ビステッカは分厚く切られ、これもバサッと大皿に盛られた、真に豪快である。ここから4人の大男はあっという間に平らげるのである。
トマトなんか切る必要はない、丸のままがぶついて、これがたまらなく美味い、ほろ苦いトレビスは肉とよく合う、オリーブオイルをぶっ掛けて(こんな表現が良く合う)塩とレモンだけ、勿論ビステカにもたっぷりとレモン汁をかける。結局ワインは2本開けられて、このとき初めてサンペリグリーノ(ガス入りの水)を飲んで、私はそれ以来今日までその虜となっているのです。
イチジクも美味かった。湿度のない夏は気持ちがいい、温度がそこそこあっても風が心地良い。下の小川を渡ってしっとりと幾らか水気を含み、木々の枝を揺らして舞い降りてくる。
そう、男たちは、昼寝の時間なのです。


