エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-22-

2009年01月03日

レセプションテーブルは5メートル、サービス用家具はヴェンベヌート・モスキーにアンティーク風にあしらえる様注文された。メニュー台の脚はドラゴンの足とアニー夫人は言う。フィエンツェにドラゴン伝説はないが、なぜか街灯の足は全てドラゴンの足なのである。こうして着々と準備が進められ、残るは私自身のイタリア料理への準備のみが残った。帰国後直ちにイタリア語学校に行くことになった、周3日午後3時より2時間。そして725日いよいよ私のイタリア研修が始まった。住まいはエノテーカピンキオーリと同じ建物の5階、オーナーが仮眠用に借りている部屋である。部屋の隣にはアントニオ(シェフ)とジョディー(カナダ人の女性でセコンドシェフ)が同棲していた、やがて結婚する予定だと言う。居間、キッチン、バス、トイレは共有になっている、ただし私の部屋は長い廊下で離れておりかなりプライベートは保たれている。イタリア入りして私はすぐにイタリア語学校に入学した。825日までの1ヶ月、6時間のインセンティブコースが待っていた。その82日アニー夫人は私の足になるようにと赤いモトリーノを置いて、ジョディーは洗濯機の使い方を私に教えて、「グッド ラック」と言って皆ヴァカンスに出かけていった。一人残された私は日夜勉強に(強制的に)いそしむこととなった。宿題が日増しに難しくなり、時には6時間を越えるときも出てきた、にわかにインセンティブコースを選んだことを後悔したのである。

9時に学校は始まり、1時間の昼食をはさんで午後3時まで、友人と話し帰宅は4時から4時半である。7時頃夕食をとり宿題完了は夜11時頃、テレビはなく、何とも真面目な学生気分である。

イタリアの夏の夕暮れは日本より遅い、日の入りは8時半頃である。良くミケランジェロ広場に出かけた。

この頃観光客はあふれ、かなりの賑わいのミケランジェロ広場は若者の集いの広場である。

夕日はその丘からちょうどアルノ川の向こうに沈んで行く。その20分、アルノ川は黄金の河となり、赤レンガのフィレンツェの街全体がみごとな色に染まってゆく。カフェの一番端の席を取りよくこの時間を過ごした。想えばこんな時間を与えてくれたことに深く感謝せずにはいられない。

学校にはヨーロッパ各地から様々な人たちが集まっていた。フランスからOLの女性たち、ドイツから大学の学生、スペインから建築家、ベルギーからトラックの運転手、イスラエルから大学教授、そして日本から私と学生の神戸君、そう後に料理の鉄人に出る料理人は私と一緒にこの時イタリア語の勉強仲間であったのである。気さくな彼はすでに2ヶ月イタリアにいて各地を回った後、フィレンツェにて語学勉強を選択したのであった。ヨーロッパの人々が自分のヴァカンスをイタリア語習得に何故当てるのか不思議でならなかったが、その問いにベルギーの運転手が答えてくれた、母国語だけなら国内の流通、2カ国なら2カ国に渡り、3ヶ国語なら3カ国にわたる仕事が来るのだと言う。非常時解りやすい回答であった。陸続きのヨーロッパは数カ国にわたる業務は日常的に行われより良い仕事の追及には必要不可欠の問題であったのである。やはり日本は島国だ。末端の人たちにはまだ国際人の必要性はせまっていないが、おそらくこの問題は社会問題となる日が来るだろうと感じた。