エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-26-

2009年01月31日

8月25日、いよいよ私のエノテーカ ピンキオーリでの研修が始まる9月には副支配人の小泉とソムリエの鈴木が合流する予定になっている。私の初日は26日からの営業再開に向けた掃除と準備であった。

私はそうと知らずビシッとスーツにネクタイで降りていったら、みんなボロのジーンズとTシャツで働いており、その様子から今日は掃除だけと理解しあわてて部屋に戻り一番ボロそうな服に着替え合流した。

12時30分昼食の時間となった。ジョルジョ氏からそこに座るようにと指示されたテーブルにはジョルジョ氏、アニー夫人、シェフのアントニオ、セコンドシェフのジョディー、メートルドテルのジャンニ、シェフソムリエのトンバリ、子息のアレッサンドロ、お嬢さんのアントネッラであった。私は恐る恐る習いたてのイタリア語で挨拶した。みんなは「ブラーボー、ブラーボー」と言うものの、返す言葉は英語である。まあしょうがない、みんな時間に制約されて忙しいし、まどろっこしい会話などゆとりがないのだ。

私の研修の内容が決まった。レストランでの研修はディナーのみとし、昼はもっぱら必要な器具備品の決定、発注業務を行うこととなった。海外では昼食はあまりレストランでは取らない、自宅や、バール、せいぜいトラットリアがまともなランチの場所となる。したがって昼の時間はアニー夫人が私に同行してくれることとなった。その足として、私に青いモトリーノがあてがわれ、その後フィレンツェの町中を乗り回すことになる。まず私は朝9時にレストランに出勤する、そして必要な食器の種類と枚数やシルバーの種類、グラスの種類などを整理する。夫人やジョルジョ氏が来店するのはジョルジョ氏がほぼ12時頃、アニー夫人は午後の1時から1時半に出勤し、作成したリストにアニー夫人やジョルジョ氏が変更を加えリストが仕上げられてゆく。そのリストを基に格店を回り発注がなされていった。ジョルジョ氏は昼食をほとんど食べないため、発注業務があるときは決まってアニー夫人はトラットリアや市場のスタンドで昼食を私にご馳走してくれた。週に2回、ウサギやジビエなどちょっと郊外の市場に出かけ仕入れるのも同行し、馴染みの店主に「エノテーカ東京のマネージャーだ」と紹介してくれた。慣れてきて、アニー夫人の手が離せないとき、私一人で、ジビエの買出しに行ったものだ。そこにはまたチーズもたくさんあって

なんとも美味しそうなモッツァレッラが頭から離れない。たわいもないお使いだが、従業員の一員になったような感慨がこみ上げきたのを想い出す。

9月のフィレンツェは世界中からの観光客であふれている。みんな1リットル入りのミネラルウォーターを持ち、どこもかしこも芸術干渉に余念がない。小さな町だから誰もが歩く、この街でモトリーノは実に便利な乗り物である。

エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-25-

2009年01月24日

まだ私はシエスタの存在を知らなかった。イタリアの特に夏は、皆午後の1時から4時まで昼食と昼寝の時間であった。昼寝はストレス解消、健康の両面から大変に優れていると言うが、食べた後の睡眠は果たして良いのか少々疑問の残るところだ。今では街でお土産屋を営む人々は、このシエスタ廃止論者である、観光客は昼寝をしないし、シエスタをはさんで労働拘束時間は長いし、いっそのこと無いほうがよいという訳だ。かくして私も隅っこで昼寝をすることになった。3時を回ったところで男4人はトラックに乗って15分ほどの村のバールに着いた。小さな教会があり2段になった教会前の広場の隅にトラットリアと乾物屋がありバールの隅では酒類やフルーツや野菜まで何でも売っている。それでも立派なエスプレッソマシーンがあり、カウンターではグラッパを飲んでいる人たちがいた。我々はエスプレッソを注文する。すぐに目の前にカップに1/3ほど入った実にクリーミーなエスプレッソが現われる、皆2杯の砂糖を入れてグルグルグルグル・・・・話初めてまだグルグル、スプーンをおいて、一口で飲み干し、「グラツッィエ」と言って店を出てゆく。「へっ・・もう帰る????」。ところ変わればこんなにも習慣が違うのか。日本で「コーヒーを飲みにゆこう」と言ったら、ウダウダと最低1時間は話し込むのが普通だが、こちらでは「コーヒーをひっかける」らしい。

 

ヨーロッパ史上最初のカフェは、ポーランド人により1683年ウィーンに開かれた。

当時トルコ軍に包囲されたウィーンからトルコ語を話す「トルシッキ―」と言う男が、トルコ兵に変装し、町を抜け出し援軍を呼び見事ウィーンを救った。褒美はトルコ軍が残した大量のコーヒー豆だった。この豆で男はカフェを開いた。当時のヨーロッパは水が悪く、人々はアルコールに走り健康を害するものが多く、そうした理由からこのトルココーヒーは歓迎されブームになり、ヴェネツィア、パリ、ロンドンに次々と広がった。特にロンドンでは300店にも及んだ。

やがてヨーロッパのカフェは、作家,芸術家たちの一種の溜まり場となり、文化や政治思想の変遷においてきわめて重要な役割を果たして行く。

第1次世界大戦後世の中の動きは速くなり、人々の生活から余裕は失われカフェでゆっくり時間を過ごす習慣は次第に消えていき、より簡単に、より迅速に飲食のできるBARへと変化して行った。

イタリアのBARはフィレンツェに生まれた。1898年アレッサンドロ・マナレージが立ったままエスプレッソコーヒーを飲むカフェバール「BARマナレージ」をオープン。エスプレッソはおいしく人気を得たがまだ当時工業化されないコーヒーはかなり高価であったためコーヒーだけでなく、リキュール、ビスケット、ブリオッシュ、菓子類、ポテトチップス、オリーブの実、サンドイッチ、ピッツァ等を置き食の部分を充実させると共に大衆化しようとしたのがBARのはじまりである。

 

こんな生活を3日もすると止められない所だが、残念なことにアンティークの修復とサイズ合わせは無事に終了してしまったのである、ああっ!また明日からイタリア語か!にわかにストレスが溜まりだしたのを覚えている。

エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-24-

2009年01月17日

次の週末と月曜日は学校を休みアンティーク屋で働くことになった。内装用に注文した薬屋の33メートルのカウンター窓口を廊下のサイズに合わせカットをしなければならない。当時はメールと言う物がなくファックスがせいぜいだが、建築用の図面となるとファックスには入らず鮮明さにかけるのも問題であった、故に郵送されてきて、言葉の通じないイタリア語で何とか指示をしてほしいとのことであったのだ。

建築家の伊藤氏はイタリアで設計を学んだ為、勿論イタリア語は出来る。その依頼書は手紙で綴られており、私はBenvenuto Mauroのマウロ氏と土、日、月の3日間アトリエで作業することになったのである。土曜の朝エノテーカ ピンキオーリの門の前で800に待ち合わせた。当然到着したのはボロのトラックであった。車に揺られフィレンツェから約20分アウトストラーダを通り高速を降りてからさらに20分、幾つかの集落を過ぎた村はずれの工房に着いた。すでに職人が2人いて、注文した薬屋のカウンターは並べられていた。送られてきた図面を基に正確にチョークで確認されてゆく、9つのパネルにカットするのだが、幸いなことに何とか細かく細工されたアンティークのデザインを壊すことなくカット出来る事がわかった。

後は一部が剥げ落ちているところの修復だけが時間のかかる作業となった。しかし慣れたものである、同じ材質の木片を手馴れた作業で彫りこんでゆき、2時間ほどで窓枠の一方が完成してゆく、塗装の色合わせも見事で、私には全く新しい物と本物が見分けられないほどであった。そこで私は何をしたかと言うと

サイズに合わせて切り分けられたパネルを台の上に載せる手伝いであった。そう、力仕事ならイタリア人にだって負けはしない。埃だらけの工房で邪魔にならずに結構仕事が回ってきた、そこのバケツを取ってくれとか、水を汲んでくれとか、勿論大きな声で、イタリア語でいうのだが、ひとつの作業を一緒にやっているとなんとなく必要な物がわかるから不思議である。心配していた「何がなんだかわからない状態」にはならず、安堵したのを覚えている。

一番楽しかったのは勿論昼食である。これが豪勢であった。

まず一人が蒔き(中にはアンティークの木材も入っている)を炊く、20分ほどものすごい勢いで燃やしやがてオキを広げる。4隅に木片を置いて網を置く、もう一人は2キロほどもある大きな骨付きステーキを粗塩だけで焼き始める。最後の一人は向こうの丘に出かける、やがて美味しそうなトマトやトレビス、レタス、レモンそしてイチジクを山のように持ってきた。そして何と、作業中のアンティークのパネルが裏返されシーツのようなクロスが敷かれた。私のすることはそこにイスを置いて、事務所の台所にある皿、フォーク、ナイフやグラスを並べることである。野菜や果物はさっと洗われ大きなボールにぶち込まれた。

ミネラルウォーターとワインが置かれると、すばらしい食卓になった。ビステッカは分厚く切られ、これもバサッと大皿に盛られた、真に豪快である。ここから4人の大男はあっという間に平らげるのである。

トマトなんか切る必要はない、丸のままがぶついて、これがたまらなく美味い、ほろ苦いトレビスは肉とよく合う、オリーブオイルをぶっ掛けて(こんな表現が良く合う)塩とレモンだけ、勿論ビステカにもたっぷりとレモン汁をかける。結局ワインは2本開けられて、このとき初めてサンペリグリーノ(ガス入りの水)を飲んで、私はそれ以来今日までその虜となっているのです。

イチジクも美味かった。湿度のない夏は気持ちがいい、温度がそこそこあっても風が心地良い。下の小川を渡ってしっとりと幾らか水気を含み、木々の枝を揺らして舞い降りてくる。

そう、男たちは、昼寝の時間なのです。

エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-22-

2009年01月08日

宿題の時間が何とか2時間で終るようになった8月の中頃、日本はお盆の頃かとふと家族のことが思い出されたその夜、東京に電話を入れると悲しい知らせが入ってきた。

妻からで「アガニャが死んだ」「明日お葬式をします」「・・・そうか!たのむ」

お互い短いメッセージしか声にならない。 愛猫アガニャの死が知らされた。

とても頭の良い牝猫で最初の引越しの時妊娠しており、しばらく家に帰らなくなった。3日目、やせ細って家に帰るとついて来いとでも言うようにたらふく食べると、ふり帰りながら鳴いて呼ぶ。

行く先は資材置き場の材木の奥で、そこに4匹の子猫がいた。変わった猫だった、普通は人を寄せ付けないのに、どうしろと言うのか盛んに泣いて私を促す。子猫をさわっても怒らないので。ならばと、連れて帰り押入れの奥に籠を置いてやった。満足そうに目を細めてごろごろと喜んだのを思い出す。里子に出したが一匹だけはかわいそうで、どうしても親から奪えなかった。名をロッタと名づけ、当然の様に甘やかされた。ロッタは外が怖いらしく、出してもすぐに逃げ帰ったものだ。

2回目の引越しをし、今度は一軒家で猫には数段環境が良くなった。アガニャは我が物顔で猫用のドアから出入りしている。この頃ロッタもやっと外に興味を持ち心地よい居場所も見つけたようだ。

そうして何年か幸せな日々が続いたある日、アガニャが2日家に帰らない、珍しいことではないが呼んでも帰らない。3日、不安が広がる足を伸ばし探しても見つからない。どうしたのだろう?もしや交通事故、想定できる場所、状況を考え捜索に入る、おかしい、死体もない。怪我をしてどこかで動けないのか、夜遅くみなが寝静まるのを待って家々の影や倉庫などに声をかけてみるが、か細い声も聞こえない。捜索をあきらめた2ヶ月後の朝、突然に聞きなれた声を耳にした。アガニャ?

「アガニャ」「アガニャ」呼んでみるとか細い声は少し大きくなった。隣家の塀の向こうにいるらしい。呼んでも返事だけで上がってこない。行ってみると、前足二本と崩れた腰をやっと支える片足で震えていた。1990年9月の終わり頃、クシャクシャの顔には必死に生きた2ヶ月が現われていた。

いったいどうやって生きていたのだろうか?

「良く生きていたね、アガニャ」熱いタオルで身体をふいてミルクを飲ませた。

医者はもう骨が固まっており、手術をして直る可能性はない、奇跡的な2ヶ月は運良く内臓が傷つかなかったからだろうと言った。事のほか喜んだのは愛娘のロッタだ、身体をなめ以来一時も離れずからだの繕いを手伝った。それから11ヶ月、再び布団で眠る時の顔はやっと安らかになったのに。

その知らせを持って、私はサンタクローチェ教会に行った。

「アガニャ、向こうで野原を走れ!」そう言って別れを告げた。

イタリアでの始まりは、なんと色々あることか。

エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-22-

2009年01月03日

レセプションテーブルは5メートル、サービス用家具はヴェンベヌート・モスキーにアンティーク風にあしらえる様注文された。メニュー台の脚はドラゴンの足とアニー夫人は言う。フィエンツェにドラゴン伝説はないが、なぜか街灯の足は全てドラゴンの足なのである。こうして着々と準備が進められ、残るは私自身のイタリア料理への準備のみが残った。帰国後直ちにイタリア語学校に行くことになった、周3日午後3時より2時間。そして725日いよいよ私のイタリア研修が始まった。住まいはエノテーカピンキオーリと同じ建物の5階、オーナーが仮眠用に借りている部屋である。部屋の隣にはアントニオ(シェフ)とジョディー(カナダ人の女性でセコンドシェフ)が同棲していた、やがて結婚する予定だと言う。居間、キッチン、バス、トイレは共有になっている、ただし私の部屋は長い廊下で離れておりかなりプライベートは保たれている。イタリア入りして私はすぐにイタリア語学校に入学した。825日までの1ヶ月、6時間のインセンティブコースが待っていた。その82日アニー夫人は私の足になるようにと赤いモトリーノを置いて、ジョディーは洗濯機の使い方を私に教えて、「グッド ラック」と言って皆ヴァカンスに出かけていった。一人残された私は日夜勉強に(強制的に)いそしむこととなった。宿題が日増しに難しくなり、時には6時間を越えるときも出てきた、にわかにインセンティブコースを選んだことを後悔したのである。

9時に学校は始まり、1時間の昼食をはさんで午後3時まで、友人と話し帰宅は4時から4時半である。7時頃夕食をとり宿題完了は夜11時頃、テレビはなく、何とも真面目な学生気分である。

イタリアの夏の夕暮れは日本より遅い、日の入りは8時半頃である。良くミケランジェロ広場に出かけた。

この頃観光客はあふれ、かなりの賑わいのミケランジェロ広場は若者の集いの広場である。

夕日はその丘からちょうどアルノ川の向こうに沈んで行く。その20分、アルノ川は黄金の河となり、赤レンガのフィレンツェの街全体がみごとな色に染まってゆく。カフェの一番端の席を取りよくこの時間を過ごした。想えばこんな時間を与えてくれたことに深く感謝せずにはいられない。

学校にはヨーロッパ各地から様々な人たちが集まっていた。フランスからOLの女性たち、ドイツから大学の学生、スペインから建築家、ベルギーからトラックの運転手、イスラエルから大学教授、そして日本から私と学生の神戸君、そう後に料理の鉄人に出る料理人は私と一緒にこの時イタリア語の勉強仲間であったのである。気さくな彼はすでに2ヶ月イタリアにいて各地を回った後、フィレンツェにて語学勉強を選択したのであった。ヨーロッパの人々が自分のヴァカンスをイタリア語習得に何故当てるのか不思議でならなかったが、その問いにベルギーの運転手が答えてくれた、母国語だけなら国内の流通、2カ国なら2カ国に渡り、3ヶ国語なら3カ国にわたる仕事が来るのだと言う。非常時解りやすい回答であった。陸続きのヨーロッパは数カ国にわたる業務は日常的に行われより良い仕事の追及には必要不可欠の問題であったのである。やはり日本は島国だ。末端の人たちにはまだ国際人の必要性はせまっていないが、おそらくこの問題は社会問題となる日が来るだろうと感じた。