エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-21-

2008年12月26日

翌日から2日間アニー夫人が我々を案内し、アンティークショップ巡りで家具やオブジェを探すことになっている。これは実に楽しい仕事であった、最初に訪れたのはBenvenuto Mauro(ベンヴェヌート マウロ)であった。エノテーカ ピンキオーリから1キロほど離れたところにあり、主に内装用のカウンターや壁材を扱っている。小さな工房があり、アンティークのイスを修理していた。ものすごく太い指の埃だらけの手をタオルで拭きながら、まん丸の顔に無精ひげのマウロさんはにんまりと笑って手を差し出した。笑った顔は雪ダルマを赤茶に塗りつぶした様相をしていかにも愛想が良い。太い腕は力がありそうに盛り上がり、構えた手はすっぽりと道具が納まりよさそうに肉付きが良い。ウッシウッシウッシと良く笑い屈託がない。

「15世紀ごろの内装に適した材料がないか探しているのだが、何かあるだろうか」

「ああっ、そんな物ならいくらでもあるよ」そう言って彼は我々を工房の裏手に案内した。

そこには埃にまみれた板が無造作に山済みされており、その一部を引っ張り出して見せた。

「これは15世紀の銀行のカウンターだ。工場にはファーマシーのカウンター窓口が12、約40メーターあるが興味あるか?写真ならここにある。」

「銀行のカウンターは約4メートル、バーカウンターに代用できないか?」

「薬屋のカウンターはフィレンツェの創始者メディチ家を連想させていいかもしれない」

もう一つ、マウロはとっても古い物だが、これは7世紀ごろ主に夫人が移動用に使用した人力車だと言って写真を見せた。しかし、オブジェにしては大きすぎておく場所がないように思える。

大いに収穫はあった、設計士は上気しあの材料はワインセラーの続きの通路に最適だと興奮気味に語る。

「フィレンツェは凄い街だな、こうして探せばなんでも出来てしまうな」

一度シニョーリア広場に出て皆でコーヒーを飲んだ、500リラ、本場イタリアのエスプレッソとても美味しいが決して安くはないと思う。ポンテベッキオ橋を渡り、ピッティー宮殿のある職人街へと進む、Walter Bronzi(ウォルター ブロンジ)でアンティークの鏡を発見、個室にちょうど良い。青銅や大理石の彫刻はいくらでもある。絵画の類はもちろん名のある物は美術館に展示されているが、芸術の都フィレンツェでは無名の作品はあふれているのだ。それでも片隅には、ガリレオ ガリレイの作なる時計があり頭の中で歴史が交錯する。Severio Senatori Antic(セヴェリオ セナトリ アンティク)で中央ホールに置くキャビネットを見つけた、この品は16世紀にフランスから献上された品だと言う2メートル20センチのキャビネットはどこか品が漂う。

探すのが難しいのではなかった、品物が多すぎて、選ぶのが難しかったのである。

選んだ品々には、やんわりと夫人の趣味が盛り込まれ、選ばれていったのでした。

エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-20-

2008年12月20日

さていよいよ内装の確認に入る。まずポイントはワインセラーがルネサンス期教会の回路をイメージされていることから、全体に15~16世紀でまとめる事で合意した。となるとアンティークの家具や調度品をあしらい本物の重厚さを出すのがベストである。床はイタリア風寄木とテラコッタ、要所は大理石、壁はイタリアらしさを出す為スタッコ塗装となった。問題は日本にスタッコの技術人がいないため本店の内装屋に日本の左官屋を送り、技術を会得することにした。ちょうど8月の休暇の間に壁の補修があるため研修が決定された。

いよいよ明日はフィレンツェ中のアンティークショップを回り、イメージを固める作業に入る。私自身はとても楽しみで、わくわくとその話を聞き入っていた。察するにかなりの資金をかけて内装されてゆきそうである。

持ち込まれた、テーブルクロス、食器、カトラリーは会議中テーブルに置かれており、皆は内装を協議しながら、家具の色やカーテンの色調、特にイスの色や形状にお皿やクロスの色との同調性を意識していた。

皿はジノリのアンコーナシリーズでボーンチャイナのきわめて薄手の皿である。白が基調でEPロゴマークがあるだけのシンプルなものであった。当時のフランスや日本では割と華やかな色合いのリモージュのベルナルドが多く前菜、魚、肉、デザートそれぞれに違う柄の皿を使用するのが主流の時に、シンプルな皿は私には強いインパクトがあった。エノテーカと名付けた事からブドウのモチーフはいたるところに使用され、ワインクーラーやシャーベットスタンドはオリジナルのデザインでブドウが品良くデザインされている。シルバーはフィレンツェのブロッジ社、テーブルクロス、ナプキンはリボルタ・カルミニャーニ社のリネンのサーモンピンクであった。グラスは全てリーデル社の物であくまでもワインを楽しむ為のものを厳選している。当時で種類は20種類に及んだ(現在は30種類に増えている)。

初めて目にした食器やカトラリーなどは非常にシンプルで品のよい物であった。

さていよいよ今夜は初めてエノテーカ ピンキオーリのディナーを食べる事になっていが、まだ私自身はイタリア料理を把握しきれていない為か、まだイメージできないでいる。

4時にアニー夫人とは別れ街をぶらぶらすることにした。急にアンティークショップが気になり目に付くようになるとなるほど、ずいぶんあちこちに店が連なっているものです。我々は街の中心リパブリック広場のバールに入り、スプマンテを注文した。「since 1720」と言う文字が目に入る、今年が1991年だからざっと271年間営業していることになる、こんな店が271年前に存在したことを思うと、人々の生活習慣の深さを歴史の足跡に重ねなければ理解できないであろうと思う。すばらしい街である。

エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-19-

2008年12月13日

2度目のイタリアは空路フランクフルトからピサ、そして列車でフィレンツェ入りした。

4つ星でアルノ川沿いの瀟洒なホテルに部屋をとり、翌日ロビーで待ち合わせをした。

お皿や銀器を運ぶとなると当然車で来るものと想像していた。イタリアを代表するレストランのオーナー夫人で総料理長となれば、初めて会う私からすれば少し近づきがたい印象を持つのは当然だと思う。第一女性の料理長に今までお目にかかった事がないため、どの様な風貌なのか想像がつかない。きっとたくましいのだろうか?男勝りのいかつい感じなのだろうか?そういえば何故写真が1枚もないのだろうか?

きっと事務所のどこかにあったのだろうが、今となっては確認しなかった自分をおろかに思うのである。

しかし駆けつけた夫人は、私の印象とはおよそ正反対のものであった。第一にかなり遅れてきて「ごめんなさい」と誤る姿が人懐こかった。しかもモトリーノ(小型スクーター)で足元に山のように荷物を積んで到着したものだから、最初はどこのオバサン?(かなり失礼)かと思うところだった。全く人の想像や空想はあてにならないものです。でも緊張がほぐれ妙に温かな雰囲気に皆が安堵し、それぞれに手伝って荷物を運び入れた。しかし夜にはエノテーカに伺うのに、なぜか荷物を持っての登場であった。

私はフランス料理を経験し、イタリア料理は今回が初めてだが、マネージャーを勤める予定だと自己紹介をした。私の顔を見て「貴方は日本人か?」と聞いてきた。そういえば出張前に時間がなくて散髪に行き寂れていた、少々長い髪は天然パーマで軽いウェーブがかかり、色黒の私はラテン系に見えたのだと言う。

つまりイタリア風だからマネージャーとしていいだろうとの判断のようだ。

さていよいよプレゼンテーションが始まります。エレベーターは3機ありそのホールはそのまま受付カウンターとなる。レセプションは2名の女性が待機する。その脇に5卓25名のウェイティングソファーがあり隣接するバーカウンターから食前酒のサービスが行われる。ダイニングへの導入は14メートルのワインセラーのトンネルから始まる。ダイニングは3つの個室を有し銀座特有のビジネスディナーの需要にこたえる。調理場の広さ等、レイアウトには問題がなさそうであるが、ここからがイタリア独特の従業員への配慮で注文が入る。まずロッカールームの広さは2倍にし、寛ぐソファーとテレビが要求された。

シャワールームの設置も大事な要素だと言う。出来れば専用の冷蔵庫に水の用意があればよいと言う。

イタリアでは、従業員の数に応じトイレの数、一人当たりの水の量、シャワーが法律で決められていると言う。日本ではその限りではないと説明するが、イタリアからは調理に3名、ダイニングに2名派遣される予定だから、当然フィレンツェと同等の待遇をと言うわけである。協議の結果可能な限り受け入れてスペースを捻出することにした。

レイアウトは概ねOKをもらうことが出来た。なかなか順調な出足である。

エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-18-

2008年12月05日

水浸しのバスルームを男二人バスタオルで水を吸い取り、何とか元通りにする頃、もう朝も空けてきた。待ちに待った湯船につかりながら、沸々と苦い思いがよみがえる。

歯ブラシもないし!こんな時間にルームサービスはしているかな?と言いながらセルジュはダイヤルをする。「歯ブラシと歯磨き粉がほしいんだけど」。

15分してドアはノックされた、「これでよければ!」渡された歯ブラシと歯磨き粉はどう見てもその本人が使っている物のようだ。「グラッチェ」と言いつつやんわりと返すことにした。

何で歯ブラシが部屋にセットされてないのだ?何一つ身の回りの品がない朝はやけに時間が経つのが遅く感じられる。朝食までまだ時間があるではないか?昨夜のうちに保険会社にお電話してあり、朝の830分に担当官がホテルに来る予定になっている。

到着した担当官は元警官で、いかにも凄みのある顔立ちをしている。そしてゆっくりと語り始めた、このようなケースはまず荷物は出てこない。列車に荷を預けるのは第一に鉄道側に預かり責任は発生しないのだと言う。荷物を置くスペースのチケットを購入しただけだから何の保障もされないし、誰も責任がないので荷を探すこと自体が難しいのだと説明された。

我々は保険の補償を頼りに被害届を書くことにした。

時間はすでに10時を回った頃、担当官は警察に行く途中が駅だから寄ってみようと我々を案内した。そして、いかつい顔の元警官はゆっくりと太い声で聞き始めた。

「この者たちの荷物が昨夜着かないとの事だが、中を見させてもらおうか?」

「エート、受け取り番号は?・・・・、  ああっシニョール! ちょうど今朝一番で着いております」

こうして我々の荷物は事務所の奥から現われた。

担当官は言う「昨日からあったのさ、移動されてなくて運が良かった」

感謝感激である。

ものすごく頭が混乱し、色々な感情を整理し切れず、おもーい空気が、いっぺんに吹き飛んで、何の問題もなくなったのである。この爽快な気分は何とも表現しがたい。

このいかつい男が頼もしく、我々は昼食に誘うことにした。ところがどうしても仕事があると言って断ったのである。熱く礼を言って住所を聞いた、後で御礼をするつもりである。

忘れられないローマの初体験はこうして無事に終わり、18:42分のエールフランスでパリにそして11:35分の夜の便でパリから東京に帰国したのでした。