エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-17-

2008年11月28日

こうしてみるとトスカーナはやはり食の宝庫といえるキャンティー地区のスーパートスカーナのワインやオリーブ油、まだ人の踏み入れない場所もあるほどの奥深い丘陵地帯は様々な恵みを産出し、リヴォルノからは大漁の海産物が食卓を潤す。1412年メディチ家の2代目頭首ジョヴァンニ・ディ・ビッチはジェノヴァから港町リヴォルノを買い取りトスカーナに港を備えたのが始まりである。こうして財力に物を言わせ一気にガレー船建造をしてイタリア屈指の船団を作って海外との貿易を開始する。メディチ家はまたトスカーナに一大織物工場を建築して海外から仕入れた糸で織物を生産しモダンなデザインで輸出しました。こうして莫大な利益を上げたのです。当時発行した金貨「フローリン」はヨーロッパ中で最も安定した通貨として流通するほどでした。トスカーナは何と魅力にあふれた場所なのだろうかとつくづく思う。

そんなトスカーナを通過し、列車は静かに終着駅「テルミナ」に到着した。夜もさかりの8時を過ぎようとしていて、多くの人たちが列車から降り、出迎えた人たちと喜びを分かち合っている。派手に抱き合い、キスをし、その光景は幸せの色に満ちている。我々も自然と心がうきうきしてくる。おおっ!これがローマか。なんと活気にあふれ、人間味豊かな人々だろうか。さてと、お腹もすいたし早くホテルにチェックインし街に繰り出そうではないか。荷物受取所を探しチケットを渡す、係員は「ボナセーラ シニョーラ エ シニョリーナ」と言って気軽にチケットを見て奥に行く、やがて姿を現しこう言った。「ムニョ ムニョ ムニョ ムニョ」つまり我々はイタリア語を理解できないが「荷物はまだ届いていないとの事らしい」同行したセルジュ(フランス人)が通訳で確認したところ、たぶんニースで荷を積んでいないのだと言う。もちろん我々はヴァンティミリアで荷が通関するのを確認していることを伝えると。それでは次の列車で到着するだろうとの事だった。次の列車は10時、その次は12時。仕方なくホテルに向かうことにした。私が身につけているのは白の面パンツとHAWAIIと書かれたTシャツである。ホテルはエクセルシオール。コンシェルジェに事情を伝え、10時に駅に連絡し荷の確認を頼んで部屋に行くことにした。私はセルジュと同室で、とりあえず熱い風呂にはいることにした。黒い大理石のバスルームは広く大型のバスは優雅に部屋の中央に置かれていて、さすがにローマ風呂を連想させる。と、ジャグジから湯が出てこない。洗面所も水が出ない。

なんてこった!早速ルームサービスに連絡し苦情を伝える。しばらくしてやって来て、今日は裏手の道路の工事で水道が使えないと言う。おいおい、そんなところに泊まれる訳ないだろう?工事はあと2時間ほどで終了との事だったので、荷物の事もあるしとりあえず食事に行くことにした。

たっぷりとイタリア料理を堪能するつもりが、みんなの食欲は当になえていてあっさりと食べられるものにした。そう日本食のレストランに飛び込んだのである。訳のわからないイタリア語を連発していたので言葉にも疲れていて、日本語が何よりのご馳走に思えた。お腹が膨らめば怒りも収まる、まあイタリアらしいではないか?などと冗談も出て、とりあえず長い旅が終わろうとしていた。10時半を過ぎところ、荷物の到着とお湯の回復を夢見てホテルに戻った。希望はしかし完全に失望へと変ってゆく。まず荷は着いていない、次の12時の列車が着いても受け取りは翌朝9時だという。そして道路工事が終わったものの

お湯は出てこない。他のホテルに移る気力もうせて汗だらけで寝ることにした。

朝の3時半ころ、ドドーという音に目が覚める。ここはどこだ? あっそうだローマだ、でその音は?

やけに湿っぽいな!や、やばい!ゆ、湯が出ている! おいセルジュ!大変だ。

エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-16-

2008年11月21日

あるワインの物語

1942年秋、その日事務所に電話が入り、一通の手紙を受け取った。内容証明の意味ありげな中身にはこう書いてあった。

"ボルゲリのサラブレッド用の牧場はそなたが相続された。相続人マリオ・インチーザ・ロケッタ公爵。"

ティレニア海に面するトスカーナ州マレンマ地方のボルゲリ、この土地はやっと雑草が生える程にやせていた。太陽だけはよく当たるこの土地はしかし、サラブレッド飼育に将来は無い土地でもあった。その昔トスカーナは名馬の産地でもあったのはご存知でしょうか。今も残るシエナのカンポ広場で行われるハリオといわれるサラブレッドのレースは正に馬のレースである、騎手が振り落とされようとも馬さえ勝てば優勝である。時に騎手が落馬で大怪我をしようと、決着がつくまで誰も人などには関心がないくらいだから、イタリア人が理解できないのも無理はない。そんな悠久の歴史を受け継いだこのボルゲリは今ひっそりと微かに香る海風を受けて大地が広がるのみ。わずかにトマトを産出し、自然がなすがままに栄光の記憶はしだいに薄れていった。

名門ワイナリー、アンティノーリの血を受け継ぐロケッタ公爵は、実は高貴なワイン作りを夢見ていた。そこで公爵はわずかな可能性を信じて地質調査に乗り出すことにした。専門家の土壌分析の結果は、フランス種のカベルネソーヴィニオンなら可能性がある、その程度だった。

「葡萄の苗木を分けてほしいのですが?」

意を決し、翌年、ボルドーの名門ラフィット・ロートシルトの門をたたいた。

この一言から始まったワイン作りはまるで、家庭菜園のように細々としていた。しかも出来上がったワインは、濃すぎてイタリア人には不評だった。そして売れずにセラーに放置された。1944年に植えられた苗木は、しかし太陽と石ころだらけのこの土地で、素晴らしい葡萄を実らせていたのだ。セラーに放置されたワインは熟成するにつれて、なんと魔法のように深みのある芳醇な味と香りを出し始めたのである、やがて、どのイタリアワインをも凌ぐ逸品に熟成して行った。

幻のワインはやがて「スーパートスカーナ」としてイタリアワインの歴史を覆すこととなる。

ワインには"石ころだらけの土地"と言う意味の―Sassicaia(サッシカイヤ)―が命名された。

「サッシカイヤ」1968年、初めてのヴィンテージは、この瞬間にいきなりイタリアで最もすぐれたワインと評価されたのである。しかも分類はテーブルワインという最下位のランクながら。

当時イタリアではイタリアのブドウ品種でなければ格付けを得ることは出来なかったからである。

1994年、D.O.C.ボルゲリ・サッシカイアを取得。半世紀を経て、名実共にトップの座を射止めたのでした。これに刺激を受けたアンティノーリ社のロドビーコとピエーロの兄弟は、相次いで新しいワインを発表。

1975年、サンジョベーゼ、カベルネソービニオン、カベルネフランからなる、Tignanello

1978年、カベルネソービニオン、カベルネフラン、サンジョベーゼからなる、Solaiaを作る、こうしてイタリアワインは各地で再び最も土壌に適したブドウ品種が研究され、続々と長熟のワインへと変化して行ったのです。あと2時間ほどで目的地ローマに着く予定だ。

エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-15-

2008年11月14日

いくつもの小さな港が存在する入り江をうねりながらゆく。赤や緑や黄色にぬられた船は大漁には向いていない。もとより誰もそんなことは考えない、のんびりと漁に出かけ生活に困らない程度で引き上げる。漁が終わればそれで美味いものを食べて昼寝をする。決して贅沢ではないけれど、母なる海を持つ美しいこの地は生まれた者の誇りだ。ここでは緑は深く海にせまり多くの鳥たちが生息する。朝はとりわけ彼らの合唱で1日が始まり、そして海鳥たちの群がる行方に魚の群れがある。穏やかな地中海は自然が猛威を振るうことはめったにない。神々から選ばれし町は世界のリゾートとなり世界中から人が集まる、でも別荘は威厳を張らずにひっそりと自然と同化している。屋根の色も壁の色も石も基準があり定めたもの以外は使用できない。選ばれしこの地は溶け込むことは許されても、壊すことは許されていないのです。

100年後も列車はきっと同じ風景を走り続けるに違いない。クルーザーがゆっくりと光を受けて港を出てゆく、まるで風に押されて動いているかのように静かである。豊かな絵である。

リグーリア州からトスカーナ州に入った、ピサでは多くの人々が乗り降りする有名なピサのシャトーがあるが今回は素通りだ、しばらく行けばトスカーナ最大の港町リボルノに到着する。ここには美味しい料理がある、あの有名な「カッチュッコ アッラ リボルネーゼ」だ、マルセイユのブイヤベースに対抗する名物料理である。まず美味しい魚のスープを作る。近海の魚を選び鯛、イトヨリ、ホウボウ、オコゼなど56種類を用意する。厚手の深鍋で粗切りにした魚をオリーブ油で炒める、ニンニクをいれソテーをした野菜と合わせる、この時ウイキョウをわすれない。魚のスープにはなくてはならない香りなのだ、白ワインを入れトマトで色を出して40分弱火で煮る。フランスの場合ここにリカールと言う酒が入る。その後魚も一緒に網で搾り出すように濾せば、濃厚なスープの出来上がりだ。このまま飲めば魚のスープ、フランスではオリーブオイルとニンニクと一味でときあげたアイヨリをクルトンにたっぷりつけて、スープに浮かせて食べる、これがたまらなく美味しい。イタリアのそれはそのまま魚の味を味わう、どちらを好むかは貴方次第。さて、カッチュッコもブイヤベースもそのスープでイセエビ、貝類、近海の魚数種を20分ほど煮込んだ料理である。マンマミーヤ!お腹がすいてきたではないか。ローマに着いたらたらふく美味いものでも食べよう。トスカーナはなだらかな丘陵地帯だ、うねるような丘が連なりココリコの花がさかりだ。野ゲシの花はかれんに咲き乱れ、真っ赤に丘を染めている。ポプラのようにまっすぐに天に伸びる木々は糸杉の木トスカーナの象徴的な木々である。南に向かってまっすぐ下がれば風景がどんどん変わる。オリーブの木が増えてきた。豊かな海から豊かな大地へと入ったのだ。リボルノから間もないところにサッシカイヤのワイナリがある。イタリアのワインを根底から変えたワイン。ボルゲリ、そしてロケッタ氏、その伝説の物語を次回検証してみよう。

エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-14-

2008年11月06日

ピンキオーリ夫妻へのプレゼンテーションは、様々な角度から十分な議論を交わして準備は整えられた。このプロジェクトのチームリーダー岡田氏は多くのレストラン設計を手がけ、自らもレストランを経営することから経営者とお客様双方からのレストランのあり方に持論を持っており、デザインの中にしっかりと機能を盛り込んでいた。後はフィレンツに乗り込んで要所に収めるアンティーク家具の調達だ。これこそがピンキオーリ夫妻の力とアイデアを借りてインテリアの最終章とする。調達予定されていたものは、レセプションのカウンターと絵画、ウェイティングルームのテーブルとオブジェ、中央ホールのキャビネットとテーブル、廊下に置く数点のオブジェ、ダイニングの中の家具は、機能を重視する為アンティーク風にオーダーメイドすることになっている。従って絵画と鏡が壁を飾る。

いよいよ5月の10日にフィレンツ入りする事になった。フィレンツェ側からは食器、カトラリー、テーブルクロスなどがプレゼンテーションされ、内装の色調とインテリアとの調和の調整が予定されている。

私のイタリア入りは2度目である。八州エンタープライスの「霞水クラブ」の為にパリ、南フランス、イタリアを視察し、最高のもてなしの条件を調査した時ローマに立ち寄ったのが最初であった。この経験はしばしば後に語り告がれることになるほど悲惨なものだった。ニースからローマには電車で地中海を見ながらのんびり行こうと社長から提案され、特等キャビンの切符の手配をした。そこで荷物の問題が起こった。同行した社長のかわいい秘書?!!から、重い荷物を持ち運ぶのはいやだと主張された。調べた結果、有料で荷物を預かってくれることがわかり早速手配した。これで体一つ悠々と旅行できるではないか、皆大いに喜んでくれたのでした。電車の旅行もしゃれたものである7月中頃のコートダジュールはシーズン本番に、ヨットは穏やかな風を受けて緩やかに帆をはらませ銀色に光る海をゆっくりと進む。浜辺では日光浴を楽しみ思い思いの本を手に心と体を休める。ここでは時間を気にする人はいない。太陽が一時間進めばそこには違う海の風情と風がある。だから人々は自然の営みと共存するのだ。そうして何かを取り戻そうとしている、そうして何かをたくわえようとしている。だから誰も急ごうとしない、時間が自分を満たしてくれるまでは。

列車は日本に比べればゆっくり走る、そのほうが良い、われわれはキャビンにビールとワインを持ち込んでいる。のんびり行こうではないか!

ニースからイタリアの国境ヴァンテミリアまでは40キロ、いくらも時間がかからずに着いた。列車はスペインのバルセロナを発ってニースで我々を乗せ、美しい地中海をローマまで向かう、羨ましい限りである。この国境のヴァンテミリアでは全員が手荷物を持って下車しパスポートコントロールを受ける、まだ当時はそんな風だった。あっ、あれが我々の荷物だ、よしよし事は順調に運んでいる。コートダジュールのイタリア側は切り立った山々が海までせまり海は急激に深くなっている、深い青い色がそれを物語っている。電車で通ればフランスもイタリアも変わらない。少し乾いた感じの山々や海など分けようがないのだ。それぞれの入り江には港と瀟洒な街があり活気にあふれている。一転ジェノヴァは工場地帯だ、また有数の貿易港でもあり大型のタンカーが行き交っている。

さあ、これから無数の島が点在するイタリア屈指のリゾート地ポルトフィーノをめざす。