エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-12-
2008年10月25日
1991年3月4日、心から待ちわびて、喜びであふえるはずの春の到来を、重く暗い気持ちで迎えたのは記憶にない。
誰もが春はうれしさを隠さないものだ、幼い頃から記憶に刻まれた、私の春の到来はまず、2月の中旬にふきのとうが芽を出すことから始まる、すりゴマと味噌で合えるとほろ苦さがたまらない、冬を耐えた若芽からは大地の香りがし、そのエネルギーを感じる。まだこの頃木々は芽を出さない、梅が咲き、そして里にいたメジロは山に帰り替わりに鶯がやって来る。学校の行き帰り池のほとりに一本の猫柳の木があり、それが私の春のバロメーターとなった。つぼみが少しずつ大きくなると、私は春が動き出したのを感じたものだ。間違いなく毎日少しずつ大きくなってやがてふんわりとした綿に包まれた花芽が現われると、もうすぐ春休み。水も緩み、はだしで田んぼに入るのが気持ちよくなる、カエルの卵は白濁した泡の中の黒い点が少しずつオタマジャクシの形になって、やがてオタマジャクシは泡から飛び出してゆく。生きているのもがすべてが勢いよく活動を始める様は、危うさを伴う分元気で育つか気がかりで仕方ない。
昔はそんな春だった。
ぼんやりとそんなことを思い浮かべながら、銀座三越の前、待ち合わせ場所に向かった。
エノテーカ ピンキオーリプロジェクト担当責任者高橋課長から経緯の説明があり、イタリア料理からのアプローチよりフランス料理からのアプローチのほうがエノテーカ ピンキオーリを理解できると話された。私も現在に至る経歴を話した。また、クォリティーを追求し、常に改善、前進することにオーナーは並々ならぬ情熱を注いでいるとの事だった。
私は自分の経験で足りない所は喜んで勉強することを約束した。担当常務との面接を連絡するとの約束をして分かれた。
3月11日、正式な面接の日取りの連絡が入った。
3月15日、柴田常務と面接終了。が、その後連絡はなかった。
3月26日、柴田常務に連絡、その後の経緯を問うが、かんばしい答えはなかった。月が開けて4月5日歳面接の連絡が入る。
4月7日、再面接に、社長が現われた。
貴方の経験はよく解った、知識、技術、どれも疑うものはありません。でも今回はそれが邪魔になってはいけません。イタリアのオーナーはとにかく桁外れの情熱家です。すべて彼らの指示に従い、彼らが思う通りにコマを動かし、理解させる必要があります。自分の想いや考えはしまい込めますか?きわめて異例な質問であった。何をどの様に考える人物なのかまだ見当がつかない私に、従えるかどうかの判断はつかない。しかし社長はこのオーナーに賛同しエノテーカ ピンキオーリを東京にオープンしようとしている事実は迷う気持ちを私に与えなかった。
努力をさせていただきます。こうして私の面接は終了した。
平成3年、1991年4月19日、エノテーカ ピンキオーリの坂間英明の日々が始まる。




