エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-13-

2008年10月30日

入社して最初の仕事は、エノテーカ ピンキオーリの図面の確認だった。5月のイタリアでのプレゼンテーションに向け最終討議が行われていた。もちろんその全てはイタリア側での要望を受けて最終決定されるが、まずは基本設計を固めなければならない。デパートの7階とあって中央部分に大きなエスカレーターがある、これが完全に部屋を2分している、しかし設計士はこれを見事なアイデアでクリアした。アターブルがエノテーカ ピンキオーリとの契約に踏み切ったのもワインセラーと稀に見るコレクションの存在で、それをどの様に表現するかが課題であったが、このエスカレーターの長さを逆に利用し、4メートルの廊下を挟んで両側に4メートルの幅員のワインセラーを14メートルのトンネルで仕上げた。しかもその廊下は、ある教会の回廊をデザインしたものでアーチの天井は音響効果を取り入れた複雑な模様が施された。柱の多いダイニングもその間隔を利用し個室が3部屋考案された、銀座の接待需要を満たすには必要なものである。ただし、調理場が極端に小さかった。

この点はすぐに指摘させていただいたが、思った以上の反発をうけた。

席数は合計で140席(現在は余裕を持たせ120席)宴会等同時に100名の食事を例にとって私の説明は始まった。会を円滑に進める為少なくとも1種類の料理を3回に分けて料理の提供をしないと、最初の料理と最後の料理時間差が開きすぎて問題が生じてしまう。その為にこの席数であれば前菜、パスタ、魚料理、肉料理、デザートの5セクションは独立させるのがベストで、それぞれのセクションから料理が直接配膳されるべきである。配膳の場所が隣接されなければ、いちいち各セクションは出来た料理を一度配膳ポイントまで運んでからダイニング運ぶという2重の仕事が発生する。これは避けるべきで、各セクションの料理の仕上げと配膳ポイントは同じがベスト、あるいは至近距離に設計されるべきである。

その為には美しい回廊と中央広場の設計変更が必至となった。これには設計士はうんと言わない。様々な議論がされ、結局配膳カウンターは暖かいものを完全カバーする事で妥協し、前菜とデザートは配膳カウンターなしの設計で妥協修正された。

いよいよこのプランを持ってフィレンツにプレゼンテーションである。

私はエノテーカ ピンキオーリとの契約に至る経緯を何度も聞かされていた。誰もがその話しには興奮気味であった。お前はフランス料理をやってきて明るいようだが、面白いものがあるんだよと、早く見せたくて仕方が無い話しぶりである。

この段階でも私はさっぱりどの様なイタリア料理で、どの様に素晴らしいいのか飲み込めていなかった。

エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-12-

2008年10月25日

1991年3月4日、心から待ちわびて、喜びであふえるはずの春の到来を、重く暗い気持ちで迎えたのは記憶にない。

誰もが春はうれしさを隠さないものだ、幼い頃から記憶に刻まれた、私の春の到来はまず、2月の中旬にふきのとうが芽を出すことから始まる、すりゴマと味噌で合えるとほろ苦さがたまらない、冬を耐えた若芽からは大地の香りがし、そのエネルギーを感じる。まだこの頃木々は芽を出さない、梅が咲き、そして里にいたメジロは山に帰り替わりに鶯がやって来る。学校の行き帰り池のほとりに一本の猫柳の木があり、それが私の春のバロメーターとなった。つぼみが少しずつ大きくなると、私は春が動き出したのを感じたものだ。間違いなく毎日少しずつ大きくなってやがてふんわりとした綿に包まれた花芽が現われると、もうすぐ春休み。水も緩み、はだしで田んぼに入るのが気持ちよくなる、カエルの卵は白濁した泡の中の黒い点が少しずつオタマジャクシの形になって、やがてオタマジャクシは泡から飛び出してゆく。生きているのもがすべてが勢いよく活動を始める様は、危うさを伴う分元気で育つか気がかりで仕方ない。

昔はそんな春だった。

ぼんやりとそんなことを思い浮かべながら、銀座三越の前、待ち合わせ場所に向かった。

エノテーカ ピンキオーリプロジェクト担当責任者高橋課長から経緯の説明があり、イタリア料理からのアプローチよりフランス料理からのアプローチのほうがエノテーカ ピンキオーリを理解できると話された。私も現在に至る経歴を話した。また、クォリティーを追求し、常に改善、前進することにオーナーは並々ならぬ情熱を注いでいるとの事だった。

私は自分の経験で足りない所は喜んで勉強することを約束した。担当常務との面接を連絡するとの約束をして分かれた。

3月11日、正式な面接の日取りの連絡が入った。

3月15日、柴田常務と面接終了。が、その後連絡はなかった。

3月26日、柴田常務に連絡、その後の経緯を問うが、かんばしい答えはなかった。月が開けて4月5日歳面接の連絡が入る。

4月7日、再面接に、社長が現われた。

貴方の経験はよく解った、知識、技術、どれも疑うものはありません。でも今回はそれが邪魔になってはいけません。イタリアのオーナーはとにかく桁外れの情熱家です。すべて彼らの指示に従い、彼らが思う通りにコマを動かし、理解させる必要があります。自分の想いや考えはしまい込めますか?きわめて異例な質問であった。何をどの様に考える人物なのかまだ見当がつかない私に、従えるかどうかの判断はつかない。しかし社長はこのオーナーに賛同しエノテーカ ピンキオーリを東京にオープンしようとしている事実は迷う気持ちを私に与えなかった。

努力をさせていただきます。こうして私の面接は終了した。

平成3年、1991年4月19日、エノテーカ ピンキオーリの坂間英明の日々が始まる。

エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-11-

2008年10月18日

ある物件販売会社と契約し、「霞水クラブ」の会員券の販売が始まった。10月は36名の会員を集め11月は27名を集めた。12月に入り、社長と専務の外出が多くなり、社にはあまり顔を出さなくなった。1991年新年、会社は8日に始まった、その朝1番に全社員が会議室に招集された。社長は苦虫を潰し、顔を真っ赤にして切り出した。会社の継続が出来なくなりました。負債140億円の回収は見込めず倒産せざるを得ません、何とか「霞水クラブ」で建て直そうとがんばりましたが、めどが立たず、止む無くこのような結果に至りました。

4名の役員と経理担当が1月末まで整理で残り、我々は職を失った。あまり突然のことで、悲しむ暇などなかった、「霞水クラブ」の為に手配していた人材、特にフランスのアンドレ・シニョレーには同僚のセルジュ・マリーと弁護士を通じ事情説明と契約解除の交渉に入った。私自身は失業保険の手続きを行い、幸運にも即6ヶ月の支給を得た。

さてどうしたものか、はじけたバブルは猛烈に企業を襲い、業績の悪化は雇用の機会を奪い去った。そんな2月の間もなく3月になろうというある日、不動産会社で手がけたレストランの開店に多大な協力を頂いた大和厨設の加納社長(現会長)から電話がかかった。

「坂間さん、どうしてる?」穏やかな語り口調についつい甘えて、本音で事情を話したことを記憶している。

「ところで、フランス料理ではないから、興味があるかどうかわかりませんが、デパートの松屋の子会社でレストランを経営するアターブル松屋が、フィレンツェのイタリア料理を東京にオープンするので、マネージャーを探しているんですが、坂間さんはどうですか?」

「イタリアナンバー1の店で、とにかくワインが凄いらしいです」

イタリア料理!  凄いワイン!  しかし何も頭に浮かばない、まず第一にイタリア料理が想像できない、考え込んでる私の様子を見ながら、加納社長は続ける。

「何でも最初はフランス料理をだす予定で、提携店をパリに探しに行ったようですが、何でもそれよりすばらしいイタリア料理があるとの情報で、急遽イタリア料理出店になったらしいのです」

そのくらいだから、とにかく凄いと言う噂ですよ。それも今までのように名前を貸して、年に1,2回指導に来るだけでなく、本格的に乗り込んでくるらしいんです。そこで外国語が話せて、店の切り盛りを一緒に出来る人を探しているようなのですが、私は坂間さんがぴったりじゃないかと思うんです。」

この言葉には心を動かされた。

フランス料理を超えるイタリア料理。私の経験の回路からはとても想像も空想も出来なかった。

世の中には知らない事実がたくさんある、固定概念で捉えられないものがある、いったいどんな店なのだろうか?

どうせ失業したし、その店がどんな店なのか確認する寄り道は許されるだろう。

「加納社長、話を伺います。先方に連絡していただけますか?」わたしも又、イタリア料理を選ぶことになったのである。

エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-10-

2008年10月11日

意気揚々とパリにやって来て、厳しい現実に落胆したのは何時だったか?ずいぶんと昔のように思えるが実は5日しか経っていないことが実に不思議に思える。

冬の街角を曲がったら、春の景色になった。こんなことはありえない事なのだから、何か不思議な力の存在を信じたくなるのは当然のことかもしれない。

外観上は質素に見えるフィレンツェの街も、知れば知るほど巨大な文化の足跡が、小さな石のかけらさえも芸術作品にしてしまう。そんな錯覚に陥るのだ。

一行はビッグニュースを携え、深々と加藤氏に礼を述べ帰国の途に着いた。

11月の末にピンキオーリ夫妻は東京にやって来て、銀座の街に多いに満足していた。早速店内のインテリア設計が開始された。夫妻の考えを最大限に取り入れるため、イタリアで建築設計を経験したデザイナーが抜擢されて、いよいよエノテーカ ピンキオーリ東京の始まりである。

一方その頃私、坂間英明はバブルがはじけた不動産ディベロッパーで会員制のレストランの計画に没頭していた。六本木の120坪に池を作りピラミッドを浮かせる。広い車寄せから降りたお客様は湖上の道をピラミッドに向かう。ピラミッドは受付とエレベーターとなっており、レストランは地下に存在する。地下1階はメインダイニング、地下2階は個室、会議室とキッチンである。パリのホテルアンバサダーからすでにアンドレ・シニョレーを招聘し、高級フランス料理の準備は整った。会員権の販売は10月に開始され、翌年の10月が開店予定である。考えてみれば不動産会社のすることは派手である、アンドレ・シニョレーと契約したのは9月だから1年以上も給料を払い続けることとなった。翌年4月に来日し記者会見を開くことになっているが、それまではパリでヴァカンスだ。半年かけてじっくりとメニューを考案し、その間京都などの和食の有名店も回る予定である。個室では和食も出す予定で、当然某有名店との契約も考慮に入れている。

会員制であるが故にあらゆるニーズにも答える必要があるが、スペース的にそれ以上の料理には無理があるため、フランス料理と和食には飛び切り質にこだわる計画がされたのである。会員権価格は1500万円、年会費500万円。会議室の利用とお茶は無料、週2回2名でのランチあるいはディナーの利用まで無料。追加人数と3回目利用からは実費負担。などかなり大胆な料金設定となっている。加えて年会費で売上を確保しようなどと、ある意味利用者の意思を考えない高慢な姿勢も垣間見えるのである。

がしかし、会員権の販売は以外にも順調に伸びていったのである。

 

エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-9-

2008年10月03日

翌日午後2時、一行はまだ昼の客でにぎわうエノテーカ ピンキオーリを訪ねた。

アニー夫人に愛想よく出迎えられ、2階の部屋へと案内された。こちらで午後2時はまだ昼の真っ盛りで、にぎやかに話し、楽しくワインを飲むテーブルの人々を見ていると、ずいぶん日本とは違うイメージを受ける。男女の比率は半々で気難しいビジネスの話をしているテーブルはない。皆一様に食事を楽しんでいる。そう、なんと言っても「アモーレ、マンジャーレ、カンターレ」の国だとつくづく思う。

部屋に案内され、ウェイターが付ききりで世話が始まる。すぐに食前酒のスプマンテが用意され、アニー夫人が現われた。

「シニョール カトー、食事をしている間にジョルジョが来るだろうから内容は私に任せてもらえますか」

「マダム 気持ちはありがたいのですが、実はすでに食べてきました。今日は結構です」

「オー シニョール カトー、食べることも仕事ですよ」

弱ったな、と声のでない皆を残し調理場に行ってしまった。

しばらくして、ソムリエがワインを抱えてやって来て、ウェイターは食事のセットを始めた。

「・・・・・・・・?」 えっ! ほんとに! これから食事! さっき中華を思いっきり食べてしまったばかりなのに! みなの戸惑いも全く無視して、軽めの前菜とパスタと少量の魚料理が出された。

ところがビックリである、思いもよらず、全部食べてしまった。イタリア料理はこんなに繊細で軽い料理だったかな?しっかりとした料理に見えて、何故こんなに軽いのだろう?

誰の目にも、イタリア料理とフランス料理がいま、肩を並べたように見えた。

日本にこんなイタリア料理はまだ無い。

「一刻も早く日本に紹介すべきだな、日本人にピッタリだ」

さすがにチーズは断って、コーヒーだけをもらった。

食後、アニー夫人は、数冊の雑誌と、記事の切抜きファイルを持ってきた。当時はまだ2つ星ながら、イタリアのガイドブック総合得点では、No1の評価を得ていたのである。これには驚いた、イタリアNo1のレストランだったのか、しかも2つ星ながら。

「チャオ シニョール カトー、シニョール オオウチ」満面の笑みを浮かべて、ジョルジョが現われた。

ひとしきりアニー夫人と話をし、おおむねの概況を聞くと突然話し始めた。

「ところで話とは、どんなことですか?」グラスの並々と注いだミネラルウォーターを一気に飲み干しながらジョルジョ氏は聞いた。

「こちらは東京銀座の老舗デパートの子会社でレストランを経営しているアターブル松屋です。銀座、

パリで言えばジョルジュサンク、東京の最高の商業地区の、1150㎡に最高級レストランを計画しています。出店の興味があれば、是非考えてみませんか?」

「もちろん興味はあるが、どんなレストランを作るのか、ワインセラーはあるか、ワインは売れるか、インテリアはどうか、シェフは、ソムリエは、機構はどんな具合だ、・・・・・」

「まだ何もありません、ただ1150㎡のスペースがあるだけです、これから計画が始まります」

「本当のエノテーカ ピンキオーリが再現できるか?」

「そちらが協力してくれれば、よりよいレストランを作る覚悟は出来ている」

「ベーネ」一言目を丸くして言うと、夫人と話し始め、そして席を立った。

20分ほどして二人は戻ると「では出店を前向きに検討しよう」と切り出した。

こうして、エノテーカ ピンキオーリ東京プロジェクトは動き出す事になったのである。

苦難のパリ、冬にしてうららかなフィレンツェ、午後6時のサンタクローチェの鐘の音は一瞬の静寂を破り、新たな時への幕開けを暗示させて、誰もが安堵と身の引き締まる想いを交錯させていた。

一方その頃、坂間英明は八州エンタープライズで会員制のレストランの売り出しの最終チェックをしていた。