エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-8-

2008年09月25日

初めてエノテーカ ピンキオーリにて本格的な?伝統的な?ディナーを終えたアターブル松屋の役員一行は、思いがけない歓待を受けイタリア宮廷料理の現代版ともいえる豪華な料理と、ワインとを合わせて飲むワインデグスタシオンを経験したのである。デザートワイン、グラッパまで入れると7種類。

いやはや、幸せな限りである。だが、何を飲んだのか、説明されても誰も覚えていない、そもそもワインの知識など誰にもなかったし、料理とワインがとてもよくマッチしていたことと、えらく年代物を出され感激したことは脳裏に焼きついた。

「加藤さん、明日の午後改めてお会いできないか伺ってもらえますか?」

大内社長は明らかに酔いからではなく、確かな確信を持ってそう告げられた。

ピンキオーリ氏に明日の面会を申し入れると、事務所から6枚の名刺を持って現われた。

先週の土曜日にこの方々が現れ、日本での出店を要請したという。全国展開しているレストランで、核となるレストランを作り、ノウハウを全国展開したいというので、お断りした。エノテーカ ピンキオーリそのものを日本に再現するのでなければ興味がない、ジョルジョ氏はキッパリとそう断言したのである。

その夜、ホテルに戻り、緊急会議が開かれた。

「あの地下のワインセラーを見たか?凄いねー12万本と言っていたね」

「あれ以外に、コニャックやアルマニャックが山ほどあるし」

「イタリアだけじゃないんだねー、フランス、ドイツ、カリフォルニアなど世界中のワインがありますね」

「奥様が料理長なのもユニークで、話題性があるよね」

「・・・・・社もいいとこ取りはいけないよ、やるなら徹底的に本物をやらないと、あれだけの物を1代で築き上げたのだから、そのプライドと熱意は認めないといけない」

酔っ払い集団の会話は、何ともフレンドリーでおおらかである。

しかしいつの間にか、話の方向性は誘致に動いていた。

「どうだろう加藤さん、可能性はありますか?」

帰り際にジョルジョ氏にそれとなしに匂わせたら、意味ありげな顔をしてましたからまんざらでもないと想います。」

「世界でただ日本だけが昨年の調査で、ワインの消費量が伸びていることに、凄く興味があると言っていました」

期待を持たせる一言に、誰もがその夜ぐっすり眠れたのは幸運の始まりでありました。

エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-7-

2008年09月18日

私たちはあまりにもイタリアを誤解していたようだ。想えば、スパゲッティーとピザをたらふく食らう国、などと揶揄した言い方は誰から聞いたか?心に残る記憶をたどれば確か、フランス人が少し見下して言っていたのを思い出す。

パリからフィレンツェに向かったから無理もない、煌びやかなパリに比べれば実に質素に見える、しかし趣深いことにも気付く。ピアッツァ(広場)の大きさを見れば想像がつくだろう、馬車の時代、引く馬の数により方向転換に必要な大きさが割り出されたと聞く。12頭の馬がスムースに回れる広大なパリのピアッツァは権力を強調し、フィレンツェのそれは実用をあらわす。フィレンツェのすばらしさを理解するには、おそらく歴史の一つ一つをたどる必要がある。ルネサンスの輝きを今も放つ遺産の数々はダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエッロに代表され、ローマ法王とメディチ家が複雑に絡み合う光と影は、そこにフランスを巻き込んで今尚フィレンツェの天空でにらみ合っているかのようです。

「ボナ セーラ シニョール カトー」

ジョルジョ氏は強い意思を持つ眼力と、自信にあふれた笑顔で彼らを迎え、アニー夫人はふっくらとした表情から、心をさらけ出すような満面の笑みで迎えた。

「よく遠い日本からおいでいただきました。シニョール カトー、お任せいただければ今夜は美味しいものを作りましょう」

そうしてまずは、スプマンテが注がれた。

テーブルには各国から集まる資産家や成功者が、フィレンツェに見せられて毎年やってくる、尽きることのない史実を求め、その発券に新たな喜びを感じこうして、ワインのボトルに時を重ねる。

前菜は、オマール海老、鱈、帆立貝、フォアグラ、・・・

魚料理は、すずき、アンコウ、ヒメジ、手長海老、・・・

パスタは、タリオリーニ、ラビオリ、カラメッレ、パッパルデッレ、・・・

肉料理は、鳩、仔牛、子羊、牛フィレ肉、ウサギ、・・・

チーズはワゴンから選び、デザートは5種類をそれぞれ違う内容で各人にサービスされた。

初めてだった、全員が前菜からデザートまですべて違う内容のコースを食べたのである。

酔うにつれ、誰もがパリのレストランで食事をしている錯覚に陥ったのも無理はない。

エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-6-

2008年09月13日

フィレンツェ、ローマ人により建設されたこの都市は、アルノ河の両岸に作られました。物資輸送を考慮し河川を利用するものでヨーロッパの多くの都市が同様にローマ人により作られました。

イタリアで最初に都市づくりをしたのはエトルリア人といわれています。小アジアから移動してきた民族はフィレンツェの北の丘フィエゾレからナポリまでの各地域に城壁の街を築き勢力を伸ばしました。その都市作りは独特で丘や断崖の上に城壁の都市を作りました。現在イタリアに点在する城壁の街はほぼエトルリア時代に作られています。サイホンの原理で山の上にもかかわらず、雨水の有効る利用や井戸から街全体に水道が完備し快適な街となっています。

フィレンツェは13世紀に出現したメディチ家により500年に渡る栄華の結果、当時世界で最もモダンな街として栄えました。建築、絵画、彫刻はメディチ家によるパトロン活動とルネサンスの思想から宗教色から人間味あふれるものへと変化してゆきました。食文化もまた海外との交易から得た香料や食材を利用し豊かで華やかな料理が開発されました。特にオーブンの開発により飛躍的に料理は変化しました。12のコースによる宮廷料理はまた、手で食べる時代に終わりを告げ、フォークとナイフの時代へと新化させ、食事マナーの基本を考案してゆきました。

エノテーカ ピンキオーリはそんなフィレンツにあり、カテリーナ ディ メディチが通った料理教室のある宮殿の近く、ジャコメッティー宮殿の1階に門を構えていました。華々しい食文化の歴史を持つイタリアなのに何故我々日本人はイタリア料理を、カジュアル料理の代名詞のように考えるのでしょうか。イタリア料理=美味しいパスタの強烈なイメージはどこからやって来たのでしょうか。

例外なく加藤氏に連れられた一行は頭の整理がつかないまま、ジョルジョ ピンキオーリとアニーフェオルデ夫人に席に案内されたのでした。

そしてエノテーカ ピンキオーリは見事に一行の期待を裏切ったのである。

 

エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-5-

2008年09月05日

まだ時間はある。必ず日本に進出したいシェフはいるだろう。あらためてルートを探して条件に見合ったシェフを見つけよう。

3つ星シェフが無理なら、2つ星と言う手もある、2つ星のシェフはまだ多くのスポンサーや契約のオファーも無いだろうし、有能なシェフはいまや3つ星を狙い意欲的に料理に打ち込んでいるに違いないと聞く。その勢いで3つ星への昇進の歓喜を共に味わうのも悪くないではないか。

などと考えてみたものの、どうにも気が沈むのは仕方の無いことであった。

雰囲気を察したかのように加藤氏から話が出された。「アターブルさん、実は私どもがフィレンツェで仕事をしていた頃、実にユニークなイタリア料理店があったのを思い出しているのですが、興味はおありですか?」

「皆さんはイタリア料理をどの様にお考えかわかりませんが、まだ日本には本物のイタリア料理店はありませんし、ヨーロッパで言うイタリア料理はフランス料理のルーツとして2000年猶予の食文化の総本山のような存在です。今でこそフランス料理はヌーベルキュイジーヌともてはやされていますが、世界中の数から言ってもイタリア料理のほうが多いのではないでしょうか?」

その言葉にはイタリア料理のイメージを一変させる趣があった。

「このまま手ぶらで帰るのもなんだし、ではフィレンツェに行ってみましょうか?」誰かがそう切り出した。こうして一行は期待を抱かず、フィレンツェにむかうことになった。

誰一人としてこの時、イタリア料理を日本に持ち帰ることなど考えていなかった。

パリからフィレンツェには国際便でピザに飛び、タクシーで約1時間の道程である。今でこそフィレンツェ空港には多くの小型ジェット機が離発着しているが、当時はプロペラ機でアルプスを越えるのを誰もがためらいピザ経由を選ぶのが常であった。

「ボンジョルノ シニョール カトー」オーナーのジョルジョ ピンキオーリ氏の出迎えるエノテーカ ピンキオーリに一行はたどり着いたのである。