エノテーカ ピンキオーリ誕生のエピソード-4-

2008年08月28日

1991年11月、一行はこの時期にしては寒いシャルル・ドゴール空港に降り立った。

一行とはエノテーカ ピンキオーリの経営会社アターブル松屋(現アターブルホールディングス)の役員5名である。

タクシーは東からパリ市内に入り、中心地へと進んでゆく。疲れてはいたもののここはパリ、やはり美味いものを食べずにはいられない。ホテルクリヨンに宿を取り、30分後にロビーで待ち合わせる。

軽くシャワーを浴びてコンコルド広場に繰り出す。煌々と光を浴びてそびえるオベリスク、これがナポレオンのエジプト遠征の手土産か?手土産にしてはデカイ!夜空に浮かび上がるその姿は栄華を物語り、無言の圧力を誇示している。

コンコルド広場から凱旋門まで2,5キロ、ぶらぶら歩くにはちょうど良い。

ジョルジュ・サンクのブティック街とカフェは着飾った姿が良く似合う、やはり華やかである。

シャンゼリゼは活気にあふれ、若者たちは寒さを物ともせずに路上テーブルでワインを傾け、話は尽きることを知らない。思い切り個性を出すのがパリ風らしい、思い思いの装いはどれもがエレガントに見えるから不思議だ。

パリ在住の加藤文二夫妻を通じ幾人かのシェフを探してもらっている。

東京でどこにも負けない最高級フランス料理の店を作る。銀座の一等地、ワンフロア360坪すべてを使い、グランメゾンの誕生だ。少々の条件は受け入れるつもりでいる、アターブル松屋のフラッグシップを作るのだから、出来れば売り出し中の若手で、ハンサムならば申し分ない。

誰もがそんな想いで、前夜祭はおおいに盛り上がった。しかし現実は名のある有名店は見つからなかった。すでに有名シェフの多くは世界の都市、ニューヨーク、シドニー、ロンドン、東京で契約中で残る有名シェフは他の都市への進出には消極的だった。特に東京は一時のブームが去った後であり、シェフの興味はすでに東京にあらずと言う空気が漂う。

フランス料理の誘致は断念せざるを得ないのか?

こうして第一次視察旅行は成果のないものに終わろうとしていた。