フィレンツェ 散策 19

2010年01月23日

その後フェルデナンドの死によりスペインの力が弱まると、マクシミリアンの死後神聖ローマ帝国を継いだカール5世大公がスペインとナポリを支配下に置いた。

オランダ、オーストリア大公国を含む強大な力を懸念し教皇レオ10世とフランスは妨害活動を行うが、それに失敗すると、教皇レオ10世は密かにカール5世と取引を開始した。

おりしもドイツではアウグスチノ会の修道士、マルティン・ルターによる宗教改革「聖書を唯一のキリスト教の源泉とする」が厄介な問題として台等しており、教皇レオ10世はルターの抹殺をカールに依頼することにした。

カールは引き受ける代償として、イタリア内のフランス領に攻撃をかけた時の援助を求めた。

教皇は条件付で了承し、カールはイタリア進軍の準備に入った。

 

教皇と神聖ローマ帝国の講和が成立した中、教皇レオ10世は最後の仕事に取り掛かる。

神聖ローマ帝国との講和は一時的なものであり、あくまでもイタリアそして何よりメディチ家のフィレンツェの再興をかけた力のよりどころは、やはりフランスとの関係強化が唯一無比なのであった。

そしてようやくウルヴィーノ公ロレンツォとフランソワ1世の従妹マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュとの結婚にこぎつけ、フランス王室にメディチ家の糸を結んだのである。

1518年3月に結婚式が執り行なわれ、1519年4月に一人の娘が誕生、

名はカテリーナとつけられた。

一方、かのロレンツォ・ディ・メディチ~イル・マニフィコ~の末裔に同じ1519年男児が誕生する、名はコジモとつけられた。

教皇レオ10世がこの世を去ると、次期教皇選出の2ヶ月にも及ぶ異例の長いコンクラーベの末に、フランスが賛成に回った。

そして、ジュリオ・ディ・メディチがクレメンス7世として教皇に即位。

そのフランスの思惑通り、カール大帝の横暴が徐々に強まると、クレメンス7世は再びフランスと手を結んだ。

これに危機感を持ったカール大帝は将軍「ゲオルグ・フォン・フルンズベルグ」率いる大部隊を結成しイタリアに押し寄せた。

ここに勇気ある軍人が登場する。ロレンツォ・イル・マニーフィコの孫娘と結婚した黒隊長ジョヴァンニである。押し寄せる大群を前に、小部隊で気勢をかけながら勇猛果敢に戦い互角に戦ったのである。ポー川をはさみ、ゲオルグはこの勇敢な若者を賞賛まなざしで見た。

しかし圧倒的な近代兵器を駆使するゲオルグの軍に苦戦を強いられる。

法王からの援助は途絶え気味で、物資も兵力も不足する中巧みな戦術で神出鬼没に敵陣をかく乱し、戦果を上げたのである。

しかしついに砲弾で負傷した足の手術が原因で残念ながら死亡する。

その頃スペイン軍と合流した神聖ローマ帝国軍は3万の兵で南下していた。

教皇軍はサンタンジェロに篭城したものの力尽き逃走。

その後1529年6月29日バルセロナで条約が結ばれ、メディチ家のフィレンツ帰還が許された。

フィレンツェ 散策 18

2010年01月10日

フランス王ルイ12世が死亡し、フランソワ1世即位する。

ここからイタリア、フランス、スイス、スペイン、神聖ローマ帝国、オランダ、オーストリアの貴族勢力が執拗に絡み合い権力争いへと突入してゆく。

まず、教皇レオ10世はフランソワ1世の叔母オルレアン公妃の妹とメディチ家のジュリアーノとの結婚を画策し、フランソワ1世の懐柔に勤める。

しかしフランソワ1世もまたかつてシャルルが野望を抱いたように、イタリアでのフランスの権利の行使を決意し、密かに侵略の口実を探る。

そのため教皇レオ10世の申し出にはのらりくらりと話をのばし一向に進展の様子を見せない。

教皇レオ10世は止む無く、スペイン王フェルデナンド、神聖ローマ帝国皇帝、スイスと同盟を結ぶことにする。

そんな中、フランソワ1世は10万の兵を従えアルプスを越えたのである。

不意をつかれたイタリア、スペイン、神聖ローマ帝国のイタリア同盟軍は急遽兵を集め応戦態勢に入る。

カドナール指揮下のスペイン軍、シオン枢機卿マティアス・シネル率いるスイス傭兵軍、総司令官ロレンツォ・ディ・メディチと教皇特使ジュリオ枢機卿率いるフィレンツェ軍である。

イタリア同盟軍はまず様子を見るため、ロレンツォとジュリオがフランソワ1世と交渉する戦術に出たが、フランス軍は一気に軍を進めマリニャーノでスイス軍を一蹴し、ミラノを占拠、そしてボローニャに進軍するに至った。

後手に回ったイタリア同盟軍はやむなくボローニャで教皇との協議を提案した。

教皇との協議となればフランソワ1世も応じる。

しかし協議は大いに難航し、結局優勢であるフランス側の主張を受け入れざるを得なかった。

そして教皇領であった北イタリアの多くが、フランスの友好国であるフェラーラに返された。

さらにフランスはナポリの権利を主張してきた。

ここに及んでは立場が悪すぎた、教皇は反対しつつも柔軟性を示し、即決は出来ない為会議にかけて結論を出すことを示唆し何とかこの場をしのいだのである。

メディチ家にとっては収穫があった。忠誠のしるしとしてのジュリアーノはフランス王国に留まり、アムール公となることで、フランソワ1世に使えることとなったのである。

フィレンツェ 散策 17

2010年01月02日

そして、この大きな傷跡を残した戦争に、フィレンツは何の役割も果たさなかったのである。

サヴォナローラは「神の使者」を理由に神聖同盟に対し何の関わりも拒否したのである。

自らを神の代弁者と主張するに至っては、教皇も不快の念を隠さず、ローマに出頭して弁明せよと迫った。

それを断ると、教皇はサヴォナローラを破門してしまった。しかしサヴォナローラは教皇の指示に反し、「教皇に従うことは、神に反する」と明言してしまったのである。

教皇の怒りを恐れたフィレンツはサヴォナローラの追放を決意する。ここに至っては市民も愛想を尽かし、暴徒と化した市民によって吊るし首にされ、市内を引きずり回され、アルノ川に捨てられたのである。

 

財宝を失い、宮殿と別邸を没収されたメディチ家は、流浪の一族のようにヨーロッパ中をさまよった。

ピエロはイタリアにとどまり、ロマーニャに帝国を打ちたて、イタリア統一に動き出したチェーザレに合流したこともある。チェーザレはフィレンツにメディチ家を再興させて、トスカーナに貴重な同盟国を築こうした。しかしフィレンツはピエロの指導下でのメディチ家の復興を、まったく望んでいなかった。

 

チェーザレの野望は、先ずフランスのナポリ王国支配の野望を利用する、イタリアを統一した暁には教皇の名の下ナポリはフランスの一部と約束する、しかし本心は統一後の強力なイタリアからフランスを追い出すというもの。

 

一方ピエロはフィレンツェからの風当たり強さに失望しイタリアをあきらめ、フランスに逃亡するのである。フランス軍に加わったピエロは1503年スペイン軍との戦いで破れ逃亡中に船の転覆で死亡、ピエロの死亡後、メディチ家の当主は弟のジョヴァンニが引き継いだ。

ジョヴァンニはリヨンのメディチ銀行の支店を見ながらフランスで聖職者の道を選んでいた。

教皇がシクストゥス4世からイノケンティウス8世となると、ジョヴァンニに出世の道が開け、16歳のジョヴァンニは枢機卿に推薦された。そしてフランスから、ローマへと帰還していたのである。

しかしフィレンツ政府がローマ期間を耳にするや否や首に賞金をかけるとジョヴァンニはローマを離れ、ミュンヘン、ブリュッセル、フランドル、ルーアン、マルセイユ、ジェノヴァと回り、ローマに再び帰還する。

教皇アレッサンドロ6世とフィレンツの対立が起こったころ、ジョヴァンニは法王の利用価値のためにローマに暖かく迎えられていた。

その後ジョヴァンニは神聖盟国軍に合流し、フィレンツェの奪還を目指す。フィレンツェ市政府はサヴォナローラへと変遷したのはロレンツォ豪華王亡き後のメディチ家のピエロの責任であり、その弟ジュリアーノも同罪と主張し、帰還を拒否し、傭兵を雇い戦う意思を見せた。しかし指導者なきフィレンツェにジュリアーノが市内にメディチ派を編成するのは簡単なことであった。

内部と精通したジュリアーノは市政府の指導者を追い出し、フィレンツの僭主として返り咲いたのである。教皇ユリウス2世の死後、ジョヴァンニ枢機卿はレオ10世として教皇に選出された。

イタリアの政治に再びメディチ家が帰ってきた。そして目指すはイタリアの大地から外国勢力を追い払うことである。

フィレンツェ 散策 16

2009年12月26日

シャルルの目的はフィレンツではない。ナポリをフランスのものにし、あわよくばローマ陥落?を狙い南下を始めた。南進するシャルルは何の抵抗も受けずにローマに入る。

 

残されたフィレンツェは荒廃し、市民はサヴォナローラの予言を信じるようになる。その指示に従い悔い改めた市民は、祈りを糧とし、心の腐敗を呼ぶ贅沢な品々、貴重な複写本、まれに見る絵画の数々は広場にて燃やされた。

歴史的には、おおくの貴重な資料が灰と化し、その損失は計り知れなかった。

ここにサヴォナローラの市政が始まったのである。

 

一方ローマは震え上がった、報告によれば延々と続くフランス軍の後には略奪と強姦が繰り返されていた。

しかし、何の抵抗も出来ない無力感を感じながら、法王アレッサンドロ6世はシャルルのローマ入りを待たねばならなかった。

あとには引けない無力の法王はここで大博打に出る。

長旅で汚れたシャルルの一団に対し、最高に煌びやかな皇衣と従軍兵で厳かに出迎えたのである。

そしておびただしい兵に守られて登場したシャルルに対し、内心震えながらも

「謁見を許す、近くに来て膝間づくが良い」

と威厳に満ちた声で申し渡した。

思わずシャルルは膝間づき、足元に接吻をしてしまう。

シャルルは法王にひれ伏したのである。

ここで形成は決まった。

シャルルは、ローマを征服できたのに、何もせず通り過ぎたのである。

 

そしてシャルルはナポリに向かった。震え上がったナポリのアルフォンソ2世は王位を投げ出し、シチリアの修道院に逃げてしまった。

ナポリ人は、シャルルをアラゴン家からの解放者として、熱狂的に歓迎した。この歓迎にシャルルはナポリに長居をしてしまった。

その隙を突いたのが、アレッサンドロ6世の妾の子チェーザレ・ボルジアである。法王アレッサンドロはフランスの脅威に抵抗するにはイタリアを統一する必要を感じ、その野望をチェーザレに託す。チェーザレは教皇の名の下にその野望の実現へと動き出した。

教皇は神聖同盟をイタリア全土に呼びかける。

応じたのは、ロドヴィーコ・スフォルツァー、シャルルの成功に嫉妬した、イル・モーロ、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン、そして当然アラゴン家のフェルデナンド、こうして強力な神聖同盟軍か結成された。

軍を率いるのはマントヴァのフランチェスコ・ゴンザーガである。

1495年7月、ついにタロー川の土手で両軍は衝突した。

シャルルの砲兵と騎兵の前では、神聖同盟の傭兵軍は物の数ではなかった。

戦いはあっけなく終わったのである。

13世紀以後のイタリアの戦争で、どの戦争よりも残忍で、血塗られた戦争であった。イタリア軍の損害はおびただしかった。しかしこの敗戦の中で踏みとどまり、フランス軍重要部隊に襲い掛かり、捕獲した中にシャルルマーニュのものとされる遺品があったのを利用し、マントバ候は勝利を宣言した。

8月を過ぎた頃、シャルル軍は依然として強い勢力を保ちながらもイタリアに留まる理由を失いアルプスを越えフランスに帰国した。

イタリア人は、その美徳、才能、富、過去の栄光と経験そして軍事技術の熟練を持ってしても、北方の残忍な人種の進軍には歯が立たないことを思い知らされたのである。

フィレンツェ 散策 15

2009年12月20日

開戦の口実はミラノ公の叔父ロドヴィーコ・スフォルツァーが与えた。

ミラノ公ジャン・ガレアッツォは1490年に成人に達したが、イル・モーロは摂生の権力を離そうとしなかった。

ガレアッツォは政治に無頓着であったが、妻のイザベラは権力への執着心が強く、祖父のナポリ王フェランテに泣きつき、相応の権力につけるように協力を要請した。

イル・モーロはその動きに反応し先手を打つ、シャルル8世をそそのかすことにして、その資金の調達をした。

しかしその矢崎の1494年ナポリ王フェランテは世を去ってしまう、この好機にシャルルは動きを加速する。

再びナポリ王国とエルサレム王国に対するフランスの権利を通告して、イタリア侵略の準備を開始。そしてナポリに対し、フェランテの後継者アルフォンソ2世の退位を迫り、9月に入り、侵略は開始された。

アルプスを越えてロンバルディアに侵攻しミラノに入る、シャルルは表向きミラノ公ガルアッツォに敬意を表したものの軽蔑を隠さない。

そしてガレアッツォは3日後奇病で即死(毒殺とされる)。

イザベラは泣いてナポリ侵攻計画の変更を訴えるが、イザベラも病死。

こうしてイル・モーロは自らミラノ公を宣言。

シャルル8世率いるおびただしい数のフランス軍と、だらだらと後を追うコック、場丁、ラバ追い、蹄鉄工、楽士、従軍商人、売春婦、廷臣などの非戦闘員はほとんど抵抗を受けることなく、前進を進めた。

教皇領内ではこの進軍を阻止しようとする試みは一切なかった。

そんな中、ヴェネツィアは中立を宣言。

トスカーナに近づくと、フィレンツェに特使を送り、アンジュー家の要求の正当性とトスカーナ通過の許可を求めた。

ピエロは傭兵隊長を雇い、これ以上のトスカーナ侵攻を阻止しようと試みるが、大多数のフィレンツェの指導者は、抵抗は無意味だと主張する。

追い詰められたピエロはメディチ派からも見放されて、なすすべの無い自分に絶望を悟った。

無謀にもピエロは最後の手段に出る、かつて父ロレンツォがしたように敵陣に直接乗り込んでの談判である。

シャルルは快く彼を迎えた、が明らかに軽蔑し、頭ごなしに要求を突きつけた。

その要求とは巨額の賠償金と、サルツァーノ、ピエトラサンタ、サルッツァネッロ、リブラフラッタの要塞及びリヴォルノを領有する権利であった。

ピエロはおびえきって即座に要求を受け入れてしまう。

大失態の末フィレンツに戻ったが、市政府は彼の庁舎への入場を拒否した。

ピエロは妻と2人の子供、従弟ジュリオを連れてヴェネチアに脱出せざるをえなかった。

ピエロの逃亡が伝わると、シャルルはメディチ家の宮殿に入場し、全ての品を略奪した。

フィレンツェ 散策 14

2009年12月15日

1592年~1537年のメディチ家

 

ロレンツォ没後、あとを受け継いだ22歳のピエロ・ディ・メディチは「未だに甘やかされて育った気まぐれな子供」でおよそ人を引きつける魅力に欠ける人物であった。

メディチ家の支配体制は、もはや永続的なものとなっており、支持者の意見を無視してもやっていけると思ったのか、ビジネスと公務には目もくれなかった。公務は秘書のピエロ・ドヴィッツィー・ビッビエナに、又崩壊しつつあった銀行の管理はおよそ適任とはいえない大叔父ジョヴァンニ・トルナヴォーニにまかせっきりであった。フィレンツェは次第に浪費と快楽が蔓延し、経済状態も秩序も崩壊してゆく。

この頃フェラーラ生まれのジローラモ・サヴォナローラがボローニャのドメニコ会派からサン・マルコ修道院の「教導」として派遣されてきた。

サヴォナローラは素行を改めなければ、おそるべき天罰を受けるであろう。

人々を救う道は唯一つ、初期キリスト教会の単純さに戻る以外にない。

アリストテレスとプラトンに背を向けよ。

贅沢をやめよ。

享楽を追い求めるな。

ギャンブル、トランプ、謝肉祭、競馬、華美な衣類、香水、虚飾を捨てよ。

聖母マリアを売春婦の様に描いた絵はことごとく抹殺せよ。

政治制度を改革せよ。

国家は祈りによって統治されるのではないと公言したコジモは過ちを犯した。

祈り以外に国を治める方法はないのだ。

フィレンツよ、悔い改めよ、まだ時間はある。

今災難が降りかかるのは、祈りを忘れ、享楽に身を染めた罪のせいだと説き歩いた。

遅くはない今から悔い改め、人の自由より祈りを優先すべく教えたのである。

混沌とした中、様々な出来事が続いてゆく。

フランス王ルイ11世が世を去った。

後を継いだシャルル8世は精力にあふれ、野心に燃えた若者だった。

よく整備された常備軍を華々しく活用し栄光を手に入れようとしていた。

しかし英雄的な騎士という役割はシャルルの柄ではなかった。近眼の小男で大きな鉤鼻、いつも開いている分厚い唇がひげに隠れ、頭と手はいつも麻痺したようにピクピク動く。背を丸めてびっこで歩き、大食と好色は度肝を抜いていた。

彼は明らかに誤った教育を受けたと思われ、その立ち振る舞いは人々に警戒の念を抱かせた。

快活で美女の誉れ高いブルターニュ公妃アンヌに言い寄り、彼女がオーストラリアのマクシミリアンと婚約しているにもかかわらず馬に載せて連れ去り、結婚してしまった。

このようなエピソードを持つ若者を軽視すべきでないことは周囲の誰もが警戒していた。

そんな気質のシャルルは機会があればいつでもアルプスを越えてイタリアに進軍する用意があったのである。

フィレンツェ 散策 13

2009年12月05日

☆ロレンツォのパトロン活動

ロレンツォはことのほか輝かしい古典学者、作家、芸術家のサークルの人々と談笑するのを好み、別邸に集めては多くの時を過ごした。

コジモほどゆとりのなかったロレンツォはコジモが手がけたフィエゾレの大修道院など未完成のまま残したが、芸術家へのパトロン活動や、古書や絵画、彫刻などコレクションの拡大に努めている。

アンジェロ・ポリッツァーノ 

ルイジ・プルチ 

マルシリオ・フィッチーノ

ジュンティーレ・ヴェッキ

アントニオ・スカルチャル 

フィリッピーノ・リッピ

ドメニコ・ギルランダイオ

サンドロ・ボッティチェッルリ

アントニオ・ポライオーロ

ギルランダイオ

ヴェロッキオ

レオナルド・ダ・ヴィンチ

  ロレンツォに認められ、やはりメディチ家の保護を受ける

ミケランジェロ・ヴォナロッティ

  メディチ家の一員としてロレンツォから熱い保護を受ける

ピサ大学、フィレンツェ大学への基金提供

ヨハネス・アンギュロプロス、 テオドロス・ガザ、 デメトリオス・カルコンヂュラスらの古典学者が壇を取り、唯一ギリシャ語が十分学べる大学としてヨーロッパ中から学生が集まった。

これらの学生がフィレンツェのモダンと文化とルネッサンスの思想を自国に持ち帰ることにより、ルネッサンスはヨーロッパ中に拡大し花開くことになった。

 

1492年 ロレンツォはこの世を去った。

この年、コロンブスが大航海に出港する。それは新しいヨーロッパの幕開けであった。

ローマではアレクサンデル6世が法王に就任、いよいよチェーザレが法王の名の下イタリア統一の野望を抱き、動き出す。

これよりメディチ家とフィレンツェ(トスカーナ)は暗黒の時代へと突入してゆくになる。

1494年、チェーザレの要請を受けたフランスシャルル8世のイタリア侵略でフィレンツェは主を失った失望と、主導者を欠く混乱から、簡単に都を明け渡すことになる。

そしてその後32年間メディチ家はフィレンツェから追放されることになるのだが、メディチ家はしたたかに再浮上の布石を打ちながら、じっと機を待つのである。

その苦しい立場にありながら、隠し財産を使い二人の法王を輩出し、その法王の命を受けたジョヴァンニ・ディ・メディチは北部前線ですさまじい戦いを続け、イタリアの名誉と同時にメディチ家の名誉をジワリ世に知らしめる活躍をするのである。

フィレンツェ 散策 12

2009年11月18日

これを受け教皇は特使をフィレンツェに送り「ロレンツォの法廷引渡し」を求めた。

当然フィレンツェはこれを拒否をする。

教皇はナポリのフェランテを使い、「彼らの全財産はローマに帰するものとする」と宣言し、フィレンツェに宣戦布告した。

教皇の宣戦布告を受けても、イタリア内のフィレンツェの友好国は実行に移つろうとはしなかった。

フィレンツと友好関係にあるフランスは教皇に対し異議を述べ、大公会会議召集をほのめかし、ナポリのアンジュー家の権利を蒸し返し、逆に圧力をかける。

それでもナポリ進撃の報が入ると、ミラノ、ボローニア、ローマのオルシーニ家は用兵を雇い、フィレンツェに援軍を送る事を決意。

しかしこの戦争はフィレンツェが思うほど悲惨なものにはならなかった。

それは15世紀のイタリアの戦争習慣と幸運によるものであった。

つまり、

1・正義に基づいた戦争ではなく、私欲によるもので、権力に義理立てした戦争であったことが明白だった。

2・教皇には正直うんざりしていた。

3・戦争での兵力減少は、即座に自国の滅亡へと繋がる。

4・何世紀も本当の戦争はしていない。

ロレンツォはここでこの事態の収拾に乗り出す。

「責任はロレンツォ我一人にあり」とし大胆にも単身敵国ナポリに乗り込んで掛け合う行動に出る。

ナポリ王フェランテは面食らうが、この勇敢な行動に対し誠意をもって対応したのである。

ロレンツォは6千フローリンを持参してまず、

1・百人のガレー船の奴隷に自由を施してやり

2・貧しい人々に持参金を与え

3・多くの慈善事業の寄付をする

そうして10週間滞在し、ロレンツォはフィレンツェの正統性と内紛のおぞましさを説いた。

さらにフランス、オスマン帝国はイタリアの内紛を持ち望んでおり、両国の動きに注目しないとイタリアは侵略される可能性が大である、と力説したのである。

フェランテは教皇の腹の黒さと、ロレンツォの誠実さを計りにかけ、ロレンツォを指示した。

これによりナポリの参戦は終結したのである。

教皇との確執はひきずったままで、ロレンツォはなお厳しい状況に置かれてはいた、とりわけ銀行業務ではロンドン、ブルージュで焦げ付きが回収不可能となり破綻、ローマでは教皇は一切の返却を拒否し、メディチの財政は悪化していったのである。

そのような状況下1480年突然にトルコがイタリアに襲撃をかけオトラントに上陸、北上の気配を見せる。

そうなるとイタリアは一気に1つにまとまった、これが「ザ イタリア」である。急遽各国からローマに元首が呼ばれ会議が開かれた。

しかしこの戦争は肩透かしに終わる、スルタンの王が自国で急死したため、トルコ軍はあっさりと引き上げて、イタリアに平和が戻るのである。

そしてロレンツォの宿敵、教皇シクストゥス4世が1482年に死去

次の教皇には、チェーザレ・ボルジアの父「アレクサンデル6世」が就任する。

フィレンツェ 散策 11

2009年11月04日

暗殺計画はドゥオモでの祈りが始まり、みなが目を伏せた瞬間に行われることとなった。

フランチェスコ・ディ・パッツイーとバロンチェッロは聖歌隊席の北側に進み、ジュリアーノの後ろに陣取る。

ロレンツォはまだ主催段とは反対側の廊下に側近4人と立っていたが、2人の僧は僧服に剣をしのばせ、後ろに回った。

その時突然鐘がなりミサが始まった。あわてた二人は急いで剣を取り出し、不覚にもロレンツォの肩に手を置いて振りかざした。ロレンツォは振り向きざまに剣を見た。とっさによけた為深手はまぬがれた。そしてロレンツォは剣を抜き反撃に出た、これにひるんだ僧たちは撃退された。側近はロレンツォを連れ、祭壇を跳び越して聖具入れに飛び込んでドアを閉めた。

ジュリアーノは不運にもバロンチェッロの一撃をくらい、ひざから床に崩れ落ちた。動転したフランチェスコ・ディ・パッツィーは何回も何回も剣をすでに息絶えたジュリアーノに突き立て、しまいには自分の腿もさして負傷してしまう。

大聖堂が大混乱に陥る隙に、サルヴィアーティ大司教と一行(ペルージャから来た僧に変装した傭兵達)は予定通り市庁舎に向かった。教皇からの緊急メッセージを持参したと、市政府長官チェーザレ・ペトルッチに取り次いだ。

サルヴィアーティ大司教は会見の間に案内され、随行員はそばの部屋があてがわれた、ところがこの部屋は中からは開けられないようになっていた。

ペトルッチが食事中であったため、しばらく待たされることになったのである。

その沈黙がサルヴィアーティを不安と恐怖に導いた。

ペトルッチが現れると、サルヴィアーティは震える声で教皇のメッセージを伝えようとするが支離滅裂で錯乱していた。異変を察したペトルッチは大声で衛兵を呼び、鐘を鳴らすよう指示する。

サルヴィアーティは「今だ、今だ、殺せ」と怒鳴るが、閉じ込められた傭兵達は動きがとれずドアを叩くだけであった。

鐘を聞きつけた市民が一気にシニョーリア広場に集まってきた。

パッツィー家と少人数の一行は「リベルタ、リベルタ、メディチを倒せ」と連

呼したが、負傷しながらも駆けつけたロレンツォの姿を見るや否や、大衆は逆に「メディチ万歳、メディチ万歳」と連呼した。

事を聞きつけた50人ほどのメディチ家の武装集団が市庁舎に入り衛兵と合流し、パッツィー家に雇われたペルージャの用兵を撃破した。

ヤコポ・ディ・パッツィー吊るし首

フランチェスコ・ディ・パッツイー吊るし首

サルヴィアーティ大司教吊るし首

2人の僧マッフェイとステファノは隠れていたのを発見され、去勢されて同様に吊るし首

モンテセッコは5月につかまり、全て教皇の関与も自白し打ち首

バロンチェッロは逃亡に成功しコンスタンチノープルまで落ち延びたが、フィレンツとの友好条約から引き渡され処刑。

パッツィー家の名称と紋章は永久追放となった。

モンテセッコの自白により、強欲教皇に対抗したロレンツォは時の英雄となったのである。

ここにイルマニーフィコ・ロレンツォ・ディ・メディチが誕生したのである。

フィレンツェ 散策 10

2009年10月23日

モンテセッコはロマーニャ地方に向かいトレンティーノ、イモラ、チッタ・ディ・カステッロで同僚の傭兵隊長とクーデターの秘策を練る。

その後アペニン山脈を越えてフィレンツに入り、ロレンツォとの会談を求めた。

ジロラモの書簡を渡す事が目的のこの会談だが、モンテセッコは、ジロラモは争いの結末は明白であり、法王の名の下、せめて同盟を結びたいと希望すればしかるべき処置を持って対処すると言っていると、高慢な申し出を伝えた。

対するロレンツォは冷静に受け止めた、トスカーナは公国でありその栄えは商に秀でたゆえの豊かさであり、人々の努力で得たものである。法王に対し礼を尽せど、決して敵対や不利益を与えたことは一度もない。フィレンツェを世界一の都市に仕上げた自負から申せば、その信用は我らにあり、然るに法王にあらず。と、今回の申し出がいかにフィレンツと法王に不利益かを語り、カファッジョーロのメディチ家の別邸で会談の約束をした。

 

雄弁に語るロレンツォは聞き伝わるイメージとはかけ離れていた、特にジローラモの話しに及ぶと不仲の間にかかわらず、一言も悪口を言わずその先見の明と功績をたたえるものであった。次第にロレンツォの人物に魅せられたモンテッセッコは、自分が請け負った仕事に後悔し始めたのである。

しかし計画は後戻りできなかった、モンテセッコはピッティー家の古老ヤコポ・ディ・パッツイーと計画の打合せをした。ヤコポは当初しり込みした、過去に何度も転覆を企てた物の全て失敗に終わっていたからである。が、教皇の特命と知るや今度は実現すると確信した。

計画はロレンツォとジュリアーノの同時殺害である。

しかしなかなか実行までには障害や偶然が重なりうまくことが運ばない。

1度目は・ロレンツォをローマに呼び密かに殺害、ジュリアーノはフィレンツェで殺害

 これにはロレンツォがローマ行きを不穏に感じ、断ったために失敗

2度目は・教皇の甥の姉妹の子、ラファエレ・リアーリオの枢機卿就任祝いに招待し二人を殺害する

 このときはジュリアーノ怪我で不出席のため計画は延期された。

3度目は・ジュリアーノの怪我の回復を待ったあと、ラファエッレがかねてから噂のメディチ家の財

 宝を人目みたいと申し入れ、ロレンツォは快く受け入れ、ついでに祝宴を開くことを計画。あちこ

 ちからの大使も招待し、この雑多の中での殺害計画。

 結局ジュリアーノが目の炎症で欠席をしたために延期となるのである。

 

これ以上の計画変更は情報漏れと、待機している兵士の士気低下の懸念もあり、サンタ・マリア・デ

ッレ・フィオーレ教会(ドゥオーモ)のミサの最中に実行されることになった。

 

ここで、次第にロレンツォ暗殺に疑問を抱き始めたモンテセッコが離脱の機会と判断し「聖堂内での殺害は信義に反する」と言い張り計画参加を断ったのである。

モンテセッコほど権の達人ではなかったが、2人の若い僧マッフェイとステファノがすぐに名乗りを上げた為、モンテセッコへの執拗な説得は行われなかった。

しかしすでに計画は少しずつ狂い始めていた。